2013年10月8日火曜日

梶野清子(92歳)        ・原爆を体験して(戦争平和インタビュー)

梶野清子(92歳)     原爆を体験して(戦争平和インタビュー)
広島で被爆し、現在松山市にお住まいの、梶野清子さん
勇さんと結婚し、娘さんの弘子さんが生まれた1年後に昭和20年8月6日を迎えました
被爆したあの日の光景とともに、被爆者、母、祖母として原子爆弾が遺伝子に刻まれた事実に、苦しみ悩む人生を過ごしてきました
終戦から68年にわたって、一切誰にも語らず、記憶の奥底に封印して生きてきた、梶野さんの92年の人生を伺います

8時ぐらい前に警戒警報があって、斜め前の防空壕に入ったとたんに、おじいさんがメガホンで空襲警報が無くなったので、出ておいでと言われて、家に帰ったところに原爆が来た
爆心地から1km 弘子は2階の梁にぶら下がっていた
弘子を抱っこしたまま、裏の川の方に逃げて行った  妊娠していた(7カ月)
川上の方から真っ黒になって、雲が下りてきた 其れは怖かった
大きな黒い雨が降ってきた そんなに長くは降らなかった
段々引き潮になって、人がどんどん流れる、小舟に人がぶら下がって、手が離れてそのまま沈んでゆく、その光景をこの目で見ました
飛行機が錐揉みをして落ちてゆくのも観た   
橋が木の橋で、焼けては落ちて行った
家が焼けた火の粉も飛んでくるので、弘子を抱っこして水に潜る

その時に不思議なんですが、私を起こして抱きしめてくださった人がいた
どなたかはわからない 引き潮の時にはいなかった 流れなくて済んだので助かった
そういう奇跡を体験した   避難場所に行った
裸足なので、足が焼けてしまっていた(太ももも身がそげる)
道行く人はほとんど、男か女か判らない 
倒れた人はお腹の被爆のところが腐って、白くなっていて、何かと思ったらウジが湧いていた
観ただけで胸が張り裂ける、地獄のような光景だった

主人はリュックに詰めて、お母さんをお見舞いに行こうと思って、電車に乗った処を原爆にあった
弘子は何も言わないで、息だけはしていたが、まさに死んだような状況だった 
トラックに乗せてもらって、北部の方の壬生に避難した
その時は肉親は亡くなっていることは知っていた
弘子は壬生に行ってからお医者さんに行って、亡くなりました  1週間も持たなかった
その時に私も倒れて、そこからは弘子を見ていない
主人が弘子を山のどこかで、薪で燃やして、骨を取ってどうかする事も知らなかった
主人は聞くなと、一切言わなかった
おなかの赤ちゃんをちゃんと産まないといけないとの思い
500~600gの小さい赤ちゃんだった 強く生きてもらいたいと思って「剛」と言う字を付けた

康子(長女)、ひろみ(次女)をもうけることができた
疎開先では、生活ができないので、戻ってきた
松山での暮らしは、あの人は原爆を受けているので、原爆がうつるよ、とか、病気がうつるとか、パーっと自分のうちに逃げてしまう
其れは悲しかったですね、あんな悲しい思いは無かったですね
店に行っても、買いたいものを売っていませんと、言われたことがあった(目の前にあるのに)
被曝すると髪の毛が抜けると云う事で、髪の毛は、かつらなのとかも言われた、そんな悲しい思いは何年もした
貧血が多かったし、身体が痛いこともあった
力仕事をした翌日は休まなくてはいけなかった(身体が動かない)
更年期の様な症状(34,5歳の時)で、頭がおかしいのではないかと、言われて、精神病院に行ったほうが良いのではないかと医者から言われたりもした

今だに腹が立つのは、ABCC 外国に人が検査するとか、身体を見てもらったらいいといわれて、広島に行ったら、入ったとたんに、着物を全部脱がされて、パンツまで脱がされて、ガウンを着せられて、変な部屋に入れられて、どうも協力有難うございましたと、追い出された
被爆データを取るためのものだったが、説明は一切ない
被爆してから何十年もすると、被爆症状が伝わってくる
怖さがあるから、其れを聞くと先先寝てしまうので、いつかは同じようになるのではないかと思った
下の子が、今日は母が死ぬんじゃないか、今日は母が死ぬんじゃないかと思っていたようで、日記に記載していた
新聞か、ニュースで子供たちは自然と両親が被爆したことを、知ったようだ
(私からは一切言わなかった)

「剛」が人工透析をしなくてはいけなくなった 被爆が原因ではないかと、母親として悩んだ
31歳で亡くなった   
口で言える様な母親としての悲しみは、誰にも話したくない、一番悲しい事ですね
剛についていきたかった  我が子に先立たれるくらい、悲しいことは無い
剛と同じぐらいの人を見ると、あの人は剛ではないかと、思ったりする
被爆二世 康子さん、ひろみさん 疲れ方が普通ではないなと、心配する事はある
ひろみの男の子(長男)は白血球が、3000あったよと 言われて、普通だったので涙が出てきた
被爆3世まで、影響するかどうか、いつも心配してきた

福島第一原発→こんな苦しみは日本人の皆が味わう事は一番嫌
今の被爆と、私たちが受けた被爆はどのような違いかは、判らないので、とやかくは言えない
戦争だけはしたらいけない それ以外にないですか  戦争は一番悲惨
孫、ひ孫が戦争に駆り出されることは、絶対嫌、どこへでも行って辞めさせたいと思う
原爆にあっているので、その悲惨さは、口で言える悲惨さじゃあないです
故郷の広島には、もう二度と帰ろうとは思わない  もうみんな死んでいるので
何年か前、広島の美術館に行こうと、友達に言われて、行こうと船に乗って、さーっと行くけれども、私はすぐ前にでられない  
涙がこぼれて、帰る家がないのを思ったら、悲しくて、私を待っているのは電車の線路だけですもの、変わらないのは、其れは悲しかったですよ(来るんじゃなかったと思った)
広島には帰りたいとは思わないし、行きたいとは思わない

広島に足を運ぶ事ができないのは、決して広島のことを嫌いになったのではありません
生まれ育った大切な故郷であり、大好きな街であったからこそ、幸せだった時の思い出を心の中に大切にしまっておきたいからです