金沢泰子(書家、歌人) 娘翔子の微笑みに支えられて
昭和18年千葉県の生まれ 幼いころから習字に親しみ、明治大学に進んでから、本格的に書の道に取り組まれました
42歳で翔子さんを出産、52日後に翔子さんがダウン症であることを知らされ、生涯で最も深く辛い絶望を持ったと日記にお書きになっています
金沢泰子さんは、奇跡は起こらず翔子は今でもダウン症ですが、娘の無垢の微笑みが、私の心に奇跡を起こし、暗闇から光を見つける事が出来ましたと、お話になります。
泰子さん、翔子さん親子は如何にして闇を脱したのでしょうか。
翔子さんは今年、28歳、母の指導で5歳で筆を持ち、10歳で般若心経を書き、20歳で個展を開くなど、才能は順調に開花しました
去年の大河ドラマ、平清盛の題字を書き広く知られる様になりました
翔子さんは各地で席上揮毫を行っていますが、代表作の一つ 、風神雷神は、京都の建仁寺で俵屋宗達の屏風絵、風神雷神と並んで展示されました
東京国体の開会式 5m四方に「夢」を書く 25kgの筆で翔子が書く
当人はプレッシャーは無かった 良い字だった、初めて書家だと思った
翔子は、私の書道室で子供、障害者に教えている
翔子の愛、思いやりは私の教えではない
無心の心から来る愛情みたいなものに接すると、幸せになっちゃうんですね
「奇跡は起こらなかったが、祥子は幸せな人生を送っている」と著書に書いている
奇跡とは、ダウン症よ治ってほしいとの思いだった
神に執拗にせがみました
私の命と引き換えでもいいから、治ってほしいと思った
奇跡は起こらなかったが、いろんないいことが起こって、翔子もいい子になって、ダウン症が治ると言う奇跡はおこらなかったが、形を変えて奇跡のような事が私に起こったのかなあと思う
勿論書道で評価していただいて、嬉しいです 自分の存在を認めて頂いた。
「爪噛み」が20歳のころまであったが、精神的なものだから止められなくて、20歳の時に個展をやって、皆に褒めてもらって、存在を認めてもらったら、「爪噛み」は治った
知らず知らずに、障害者だから、特別扱いをしていたものと思う
人間て、自分の存在を認めてもらいたいと思うんだなあと、思いました
IQが低いので、凄い特別な不思議な空間を持っている
科学的検証、社会的常識がない、から幻想の世界と現実の世界との堺がない
偉いとか、偉くないとか、お金持ちとか判らないから、全くそこに差は無い、だから動じない
美しい花があったりすると手をあわしている、石も月も犬も人間も樹も、私の心を動かしていたと、言う事がこの年になって気がついた (翔子の平等観を教えられる)
書道も50年やっているが、翔子に敵わないのは、私は鍛錬し過ぎて、観念的になっている
翔子は純粋な魂から出る線なんですよ、だから感動を呼ぶ
私は形は綺麗ですが、翔子はただ喜んでもらいたいとの想いで書くので素晴らしい
翔子は、今の豊饒な時間を生きている(社会的な欲望がない)
彼女は不幸ではない、あれができないから不幸だとか、そういったことは絶対ない、今やっている事がやりたかった事ですから
禅とかなんとかで着く境地みたいな、社会的欲望が無いと云う事は本当にその場でだけで満ち足りて、優しさだけが出てくる。
子育て日記を公開したのは、泣きながら育ててしまった、之はとても悔まれたので、泣きながら育てないでという事を、障害者の子を持っている人たちに、伝えたかった
私は知的でないものは美しくないと、若いころから嘘ぶいていた
当時、閉鎖的で隠して育てていたので、涙にくれてダウン症の告知を受けた
告知された日から、苦しさから日記を付けた
始末しようと思うくらい苦しんだ
死のうと思ったが、なかなか死ねなかった事を日記の隅に書いてある
泣きながら育てていたが、翔子は涙をぬぐってくれていた
不思議な微笑みがあった いつもにこにこしていてくれた
苦しい中で、健常者が生れたら絶対できない様な、絆が生まれた
信じれば子供は疑わない
当時は隠して育てていて、5年間日記を付けていたが、5年で終わった
TVを観ていて、翔子の名前でドラマに出ていて、「翔子っていい名前だね」と言う形で、日記が終わった
初めてここで立ち上がれた 苦しい時に書いていたので、保育園にも行くようになった
そこからどんどんこの子の良さが判ってきた
何をやっても最下位なんですが、にこにこ喜んで最下位を引き受ける
最下位を守りながら、20歳まで来ましたが、それが翔子にとって幸いでした
ビリでいいと覚悟したので、楽になりました
本を読んでいて、「神はこの世に不必要なものは造られない」というこの一つのフレーズに救われた(覚悟ができた 翔子の役目があったんだと)
人と比べると、障害者だが、比べなければ、障害者ではない
苦しい人とかかなしい人とかに、心が痛むんですね
翔子は純粋な魂は争いを嫌う、優しくなれる、人間じゃないと思うような優しさがある時がありますね
「天使が降りたとすればそれは翔子だろう」と本に書かれている
障害者を持つと云う事は、私が死んだ後を考えないといけない
言葉が不自由なので友達はできないものと思って、 一人の孤独な時間を自分で過ごせるようにしておかないといけないと思って
写経 二人でずーっと孤独な作業をやってきた 書道 それがいつの間にか基本になった
①身の回りを綺麗にしないと嫌われるので、掃除を一緒にやってきた
②料理ができる事 小さいころから過激なほどやってきた 周りから非難されてもやってきた
今は上手になった TVみてレシピを頭に一杯入っている
③5歳から書道をやらせ、10歳で般若心経を書く 272文字 朝から晩まで毎日書いた
小学校4年で普通学級にいけなくて、あまりに悔しくて般若心経の作品を作っちゃえと思った
難しい文字ばっかりだが、朝から晩までやっていた
厳しく指導したりして、翔子は涙を流しながら書くが、一行書くと「お母さん、ありがとう」という
10組 3000文字を書いた、それが基礎になった
能力を信じてあげて欲しい、能力を認めてあげて欲しい
障害者をもっているお母さんたちに言いたいのは、過保護が一番駄目にしてしまうかもしれない
子育てで一番必要なのは、信じてあげる事 信じることは、親しかできない
翔子が昨年2月に骨折してしまって、1か月入院してしまって、建長寺展に間に合わなくなってしまった
3月初めまでに書かなくてはいけなくて、「一期一会」と大きく書かせようとしたが、骨折して車椅子なので書かせられなくて、車椅子でも書けるように、急遽千字文を書かせようとした
10日間で仕上げた 痛み止めを飲んで、涙を流しながら書きあげました
出来るよねと、信じてあげる事ですね
今年、中尊寺、建長寺、建仁寺、・・・10月東大寺で個展をやって、一連の作品が終わる
マネージャーがいない中で、いい仕事が沢山来ることができた
いわき市に金沢翔子美術館、銀座の歌舞伎座の裏に金沢翔子美術館、修善寺にも金沢翔子美術館がある
建仁寺で俵屋宗達の屏風絵(国宝)、風神雷神と並んで風神雷神の翔子の書が展示される
人智を超えた力があると思う、8年間でこれだけの事をできる書家はいないと思う、何かすごい力が動いているとしか思えない、そうすると感謝の気持ちしかない
もし翔子が健常な子だったらここまでこれなかったと思う
もっと競争社会に入っていると思うし、本当の魂は競争でもなく、其時を楽しく生きて、100%の喜びと豊かな時間が過ごせることが判った
ダウン症だと告知された時に、日記の最初に「私は今日世界で一番悲しい母親だろうと」と書いたが、26年経って、二人で風呂に入って全部電気を消して、窓辺に見える月を見ていたときに 、翔子に「幸せ?」と聞かれて、私は「日本一幸せだよ」と言って、涙があふれてきた
障害者を持っているお母さん達に言いたい、絶対いい時が来る
障害者を授かると、厳しい事があるが、死ぬに死ねなく死ぬより苦しい時があるが、なにもがいやな事ではなくなってくる
出来るだけ翔子を観てもらって、大丈夫だよと、大丈夫だよと、之が私の仕事になっている