山崎充哲(お魚ポストの会代表) 多摩川を死の川から救って
東京と神奈川の境を流れる多摩川は、1960年代から70年代のころ、酷く汚れていて死の川とまで呼ばれる時代がありました。
然し、住民の協力などでアユが再び泳ぐ綺麗な川になりました。
川崎市に住む山崎さんは、子供のころから多摩川を見続けてきました。
1970年代から、この多摩川で今も続く大きな問題はブラックバス、ピラニアなど外来種が多く見つかっていることです。
山崎さんはこのままでは、生態系が崩れてしまうと、こういった外来種の魚を引き取る、お魚ポストをつくりました。
家で飼えなくなった熱帯魚などを預かる活動です。
多摩川は熱帯魚を多く見る事が出来ると云う事から、南米のアマゾン川をひっかけて、多摩ゾン川と呼ばれるようになり、山崎さんは多摩川の様子を「多摩ゾン川、多摩川で命を考える」と言う本をに纏めました。
そしてこの本が今年7月第60回産経児童出版文化賞の大賞に選ばれました。
この本自体が、私が普段思っていること、多摩川で活動した内容を、淡々と書きつづる、多摩川の教科書、そんな感じで子供たちに訴える本に作り上げて、まさか賞をもらえるとは思わなかった。
多摩ゾン川には熱帯魚がいる、どうして熱帯魚が住めるのかというと、多摩川が温暖化したことも事実、なんで熱帯魚がいるのかと言うと、皆飼いきれない人が、川に捨てちゃったから居るんだよね、と言う事です。
事実を知ろうじゃないかと言う事から始まっている。
熱帯魚は高級魚ですが 昭和40年終わりごろから見受けられた。
グッピーを捕まえるとラッキーと思って家に持ち帰ったが、今はそういうレベルを越えている。
日本の在来種を脅かすぐらい増えてしまった。
ブラックバス、ミドリ亀(ミシシッピーアカミミガメ 北アメリカの亀) 多摩川では悪さをする。
捨てないでほしいと訴えている。
昔は汚かったので、金魚を捨てても生きていけないほどだったが、今はとても綺麗になったので、
生きていけるだろうと、川に逃がしてしまう。(悪意がないので困ったところ)
2011年3・11 水槽が揺さぶられて、水槽が壊れたりして、魚が飼えないと捨ててしまう事があった。
お魚ポスト→多摩川に外来種を捨てるのを辞めてくださいと言う事で、魚を預かる。
預かった熱帯魚・亀などを新しいお客さんを探す。(命のリレー)
飼育放棄をするのであんまりほめられたことではないので、ちょっと嫌みを言う事もある。
金魚を多摩川に捨てに来た子がいた→捨てられなくて泣いていた→いけすに飼ってあげるからという事で受け取った→夏休みが終わるころは金魚は300匹になった→そのことが学校に広がる
情操教育にもいいかなあと思って、金魚を飼っていた。
多摩川の源流は笠取山のめずひと言うところ。 サンショウウオといわなが住んでいる。
全長138km 人口が密集する地域。
今の30代、40代の人達は昔に戻りたくないという。
60代~70代の人は昔は綺麗だったねと言う。
昔は下水処理場が完備していなくて、生下水そのまま出ていた。
泡が立って匂いが物凄く酷い時代もあった。
多摩川は水で流したものを全部受け入れなくてはいけないが、受け入れ切れなかった。
昭和40年代から平成までの20年間ぐらい、汚れがひどかった時代。
性能のいい下水処理場が出来て、驚くぐらい下水処理場からでる水は綺麗になったが、匂いが問題。
洗剤、柔軟剤の化学合成された香り 其れに塩素が加わると非常に嫌なにおいになる。
今は薄まるのと、川の自浄作用が働く 川面に立って臭いという事は無くなりました。
下水処理場の出口はちょっとにおいます。
洗剤に匂いを付けるのではなく、洗った後に自分の好きな香りをたんすの中に石鹸を偲ばせるぐらいでいいのではないか、と思っている。
多摩川を流れている水の6~8割は下水処理の水です。
奥多摩の綺麗な水は全部水道水で飲んでしまうんです。
川崎、世田谷、狛江の水の冬は8割、夏は6割ぐらいの水が下水処理した水です。
普段から水の使い方を考える、節水も一つの手段。
5年で死の川になりましたが、30年経ってやっと死の川から脱却して、今の状態です。
次に下水処理場が止まったら、ありとあらゆる生物が死んで、復活するまで50年、それよりもっとかかるかもしれない。
平成になってようやくすこしずつ、少しずつ綺麗になってきた。
多摩川の上流に少しずつ、少しずつ、下水処理場が出来てきた。
この5~6年特に綺麗になった。
ヤツメウナギ、絶滅危惧種だが、川崎に多摩川で取れてこれは本当に驚いた(2006年たまたま一匹魚類調査で取れた) 青梅にはヤツメウナギは住んでいる。
人間が手を加えた川なので、人間が管理してやらないと、自然の川の自浄作用だけでは綺麗にならない(次の子供たちにバトンタッチしていかなければいけない)
3歳ぐらいのころに父親と一緒に釣りに行った写真が残っている。
小学校の頃は父親といつも釣りに行っていた。
小学校の頃「3kの川」 汚い、臭い、危険 行ってはいけない川だった。
大学生のころは釣りがしたくて、行ったが、一番汚い頃の川だった、死の川の象徴だった。
ゴミ拾いから多摩川の活動が始まった。
活動を始めたのが大学1年の時だった(昭和52年ぐらい 日大水産学科)
川崎河川漁業協同組合の総代、 魚協の組合員であれば増殖、啓発、啓もう活動の権利が許される。
バードウオッチング、多摩川リバーガイド(多摩川の広報委員) 等をやっている。
学生時代アルバイトを沢山やる。
環境コンサルタントの手伝い 工事現場に行って生物の保護に関与。
地域に関する文献や図鑑を読むと同時に、自分の経験でやってきた。
淡水魚 150種類、 鳥では200種類、 植物では3000種類は頭の中に叩き込んでおかないと、コンサルはできないので、図鑑片手に、天然記念物、絶滅危惧種を守るようにその場で直ぐに発信できるように活動する。
一番危惧するのが、見つからなかった事 本当はいるのに技術不足で見つけられなければ、なし崩しに工事を進めてしまう、そうすると本当に絶滅してしまう恐れがある。
ある程度の開発は必要だが、いい形で進める。
開発を止める必要はないが、生き物に対して不利にならないように知恵を最大限使ってやる事が必要、それに対してのコストは惜しまないでくださいという形で話し合ってきた。
国交省、ゼネコンとけんかしてでも、何とか生き物を守ってやろうとそういった仕事をしてきましたが
結果として随分干されてしまいました。
コンサルは中立な立場ではないといけないと思っている。
保護団体のつもりではないが、でも開発側にとっては都合の悪い人間だったんですね。
今後も考え方を曲げるつもりは無い。
卒業後、釣り具メーカーに勤めたが、釣りができると思ったが、忙しくて釣りをできる時間は無かった。 サラリーマンは2年で辞める。
その後、自然環境調査コンサルタントの会社を興した。
バブル期で大きな工事の自然環境調査コンサルをやった。(魚、鳥、両生類、爬虫類、哺乳類、昆虫など) 今も細々やっているが、開発はほとんどないので。
小学校のボランティアが多い。
今の親が自然との体験、経験がないので、子供は聞くこともできないし、子供にいろんな経験値を伝えて子供に学んでもらう。
環境学習は 理科、社会、道徳などの総合教育になる。 毎年何千人と教えている。
川で遊ぶことは危険なこともあるので、川に行くときの心得を話す。
①一人で川にはいかない。(落ちたときにだれが助けるのか)
②濁った川には近づかない。(深さが判らない)
③ライフジャケットを着ると安全。
④困ったことがあったら、大人に声をかける。(子供だけで対応してはいけない大人に相談する)
⑤サンダルで川に行かない。(サンダルは流されるのでそれに気を取られ、危険な目に合う)
水の事故を減らすことが、ずーっと多摩川を好きになってもらう基本だと思っている。
多摩川はいい子を育てるよい川になってきているので、どうやって流域の皆さんに知ってもらって、流域のみなさんが川に行ける様な環境を整えて行くかだと思います。
川をどう生かしていけるか、川に関心を持っていただきたい。
いけないのは無関心だと思いますので。 無関心が川を汚すことになる。
家族からもう少し睡眠時間をとりなさいと言われている。
倒れたことは2回有る。
1回めは狭心症、2回目は心筋梗塞で寿命宣告をされるほど酷い状況だった。
川を渡ろうとしていて、ライフジャケットがないじゃん、ではこの川は渡れないよねと言う事で目が覚めました。(三途の川だったのかもしれない) 物凄く痛くて意識を失っていた。
両親の顔が浮かび、目が覚めたら、もう怖いものなしで、其れが今の原動力です。
子供たちが今順調に育っているので、その子たちが大人になった時には、魚を多摩川に絶対に捨てることはなく、ごみ一つ捨てることはないでしょう。