中村千恵子(会社社長) 日本初の西洋楽器店を率いて
東京、銀座で創業139年の西洋楽器の販売やホールをお持ちの会社会長中村さんに伺います
立教大学経済学部を卒業後、一旦家庭に入りましたが、その後、母親の後を継いで、社長を務め、現在は代表取締役会長です
来年で創業140年になる 銀座3丁目にある 同じ場所でずーっとやっている
一番最初は明治6年にキリスト教解禁があって、宣教師の方が讃美歌を皆さんにお渡ししないと布教ができないとこのことで、スタートする
オルガン、讃美歌が必要で、煉瓦街にスタートする
曾祖父が創業
4人のクリスチャンになられる方から、布教活動がスタートしている
その後曾祖父と出会って、お手伝いすることになったのが、スタートする
曾祖父が、田地田畑を売り払って、東京に来て、海軍兵学校にいきたかったが、落ちてしまった
悲観して国には帰れないと、皇居のお堀に飛び込んだが、泳げたので助かったが、其時に原胤昭さんと出会って、一緒に働かないかと言われた、という
音楽にかかわりながら、海外の楽器を取り入れて、西洋音楽を普及したいのと、学校に音楽教育を広めたいとの想いがあった
倉田繁太郎(曾祖父) 女系で2代目 母が1歳にならない時に亡くなる
母の兄達も早くなくなる(父は戦死) 母は倉田まき(94歳) 私は嫁に出るが、後を継ぐ
主人が社長になって、戦争で建物を破壊されたが再建をした
マダム中村 9階建てのビルの9階にホールを持っている
150席 こじんまりしたホール 歓談できるスペースのサロン、テラスがある
8階にも演奏スペースがある 水曜日に無料ランチタイムコンサート 370回ぐらいになる
ハープが必ず入るようになっている(皆に知ってもらう様に、ハープの普及)
いろんな楽器を知ってほしいとの想いがある
自動演奏装置 考案して一手に販売 偽物がたくさん出た
明治天皇に献上 別荘で楽しんだのではないかと思う
ハーモニカ、マンドリン等を普及 其時に必ず日本のメロディーの楽譜を作っている(一人学び)
母の兄は教育映画を16mm、作る 「蝉の一生」、「蛙の一生」 等を作る
関東大震災のときにすっかり焼ける、第二次世界大戦のときに3月10日 大空襲でも焼ける
関東大震災のときに、丸ビルにも店があって、バラックを建てて、直ぐにスタートができた
大空襲の後も、なんとか建物を建てることができた
本業は音楽、音楽配信が変わると、父は早くから、考えていたようだ
イベントも20回以上をやってきている
ガス灯 明治7年にともる ガス灯通り
音楽を中心とした文化の交流会 17年前に立ち上げる サロン 月に1回 80人ぐらい
「おもてなし」 銀座の想い、キーワード 心地よく過ごしていただく
8年前から 蜂蜜をやっている 養蜂 屋上で飼っている 蜂蜜を使ったお菓子を作る
被災地の野菜の販売などもやっている