露の団六(落語家) 寄席も社会もバリアフリーで行きましょう
55歳 神戸市東灘区生れ 大学在学中に師匠 末野五郎さんに入門 上方落語で30年以上活躍してきました
そんな団六さんが、ラジオ番組や、エッセーで折に触れて語ってきたのが、2歳上の兄、紀男さんのことです
紀男さんはダウン症で、知的障害や心臓の合併症があります
昭和30年代、心臓病などの合併症のあるダウン症の子供の寿命はかなり短いと言われていました
しかし、兄紀男さんは明るく前向きな両親、元気に駆け回る兄弟、近所の子供たちと成長してゆきます
知的障害児の為の通園施設から、当時受け入れを始めた公立の養護学校へと進み、一人で電車通学をし、作業所で働くまでになりました
団六さんは来月、11月23日、大阪北区の天満天神繁昌亭で知的障害、発達障害の人が持つ療育手帳を持参する人は無料と言うバリアフリー寄席を開きます
障害がある兄と共に歩んできた、団六さんの、50年あまりの道のり、兄弟児としての想い、団六さんが考えるバリアフリーとは何なのか、伺いました
県営住宅に住んでいた 祖父母が隣りの棟に住んでいた
昭和31年生まれの紀男さん 33年生まれの私
兄は泣かない 離乳食も食べない、ハイハイもしない
個人差があるとのことでほったらかしにしていたが、私が生まれて、9か月で私が歩いた
身長も私の方が高くなって、私のお古を2年上の兄が着ているようになった
おかしいと、神戸大学の病院に行って、血液検査をしてダウン症と判定された
寿命が長くないことを言われて、3日ぐらい泣いた
両親もそこで開き直った
運命や、寿命や、家には弟がおるので、夢をかなえてくれると考えたようだ
物ごころついてくると、兄と遊ぶのではなく、友達と遊ぶ方が楽しくなった
幼稚園に通う時に、兄が暴れる
グラウンドで遊んでいたら、兄が入りたくて門扉をガーンと叩くが、中に入れるわけにはいかなかった(意志表示をする)
小学校に入る時に、就学通知が来るが、母親は1日でもいいから小学校に入れさせたいと、学校に連れて行ったが、先生からは無理と言われた(何かあったら困るといわれて)
芦屋の三田谷(さんだや)学園と言うところへたどり着いたが、それまでに2年掛かっている
学園ではわがままは許されない
嫌いなものも食べざるを得ず、身長、体重も急に増えてきて、健康になって行った
段々兄だという事を判ってきて、私を叩いたりするようにもなったりした
下街だったので周りはあまり偏見もなかったし、世話も焼いてくれて、私に関していじめは無かった
兄は神戸市立青陽東養護学校分教室に入れることになる
スクールバスで通っていたが、慣れてきたら自力通学をやってみませんかと、先生から言われる
電車通学ができるようになる
父親は大正15年に生まれる 父親は兄には優しかった
万博へは兄を連れてゆくとパニックになるので、私を連れてゆく
兄が物を忘れたりすると、私が必ず怒られた
父は器用で、左利きだが両手で一緒に書けるので、ガリ版で刷って、配布物を作ったりした
高校を出てすぐに、父は亡くなる そのあと相次いで、祖父母も亡くなってしまった
内弟子になって、私がいなくなって兄は精神的におかしくなった
医者に観てもらったら、アルツハイマーになっているようだと云う事で、今の施設に入っている
見舞いに行ったときに、昔は握り返したが、今は握り返さないようになった
神戸大学教育学部を卒業後教員を目指す
家から通える職業はどうかと言う事を考えて、教員を目指そうとした
結婚に際して、兄のことを言われたらどうしようと考えたらどうしようと、考えていた
両親に結婚のお願いをしたら、落語家だから、駄目だと反対されたが、兄の事ではなかったと判って、勝手に入籍、勝手に結婚した
障害のある兄と暮らしてきてどうか?→障害者の会での話、子供のころは判らない、結婚で悩む人は多い 転勤のある人などは厳しい見たい
我々、健常者にとって便利なものは、障害者にとっても便利
バリアーフリー寄席、療育手帳のある人は無料 出来れば父親も一緒に来てほしい
誰にでもわかるような話を考えている
映画、寄席等は気兼ねするので、行かないので、この場所は何もしてもいいからという事でやる
2年前、アフリカの太鼓を持ってきて叩くので、そっちで叩くのではなく、上がってこいと言って、一緒に三味線などでやったこともある
誰にでも判る簡単な落語をして、終わった後に、来た健常者の人と、知的障害の人が抱き合っていた、それでいいんじゃあないの