2013年5月9日木曜日

細谷亮太(小児科医)       ・難病の子供たちと生きる

細谷亮太(小児科医)・ 難病の子供たちと生きる
東北大学、医学部を卒業した後、東京の聖路加国際病院に小児科医として勤務しました
1977~80年までアメリカ、テキサス大学総合癌研究所で、小児がんについて診療や研究をした後、聖路加国際病院に復職し、40年間にわたって子供たちの治療にあたり、去年12月定年で小児科の臨床を退きました  細谷さんは10年に以上前から、病気を告知された子供たちを募ってキッズキャンプを続けてきました  
この活動は北海道滝川市で公益法人のそらぷちキッズキャンプとして結実し、医療施設を完備した子供たちのキャンプ場として難病の子供たちや家族に生きる力を与えています
小児科医になったいきさつ、最前線でどのような治療をしてきたか伺います

山形県で代々(祖父から)医者をしてきた  小学校3年生の時に、年末、台風の後に日赤が助け合い運動をやっていた、台風で大変な目に会った人に、なんでもいいから持ってこれる人は持ってきて、助け合いの物資を送ろうと、話し合いがまとまって、クラスの後ろに段ボールの箱が設置されて、いろんなものが入って、町の役場に届けた
役に立ったという体験だった 持ってこれないような家庭もあった(その子は全員持ってくるようにと嘘を父にいったようだ) その子の父親が匿名で私の父宛てに非難の手紙が来た 
 読んだのをたまたま私が見てしまった(内容は酷いなじりかたの手紙だった)

良い事をしたつもりだったが、人のために何かをするというのは、隠れてやらないといけないことで皆を巻き込んでやるというのは、大変なんだなとその時に思った
深く傷ついてしまった思い出がある
自分が何か人のために働いているとか、自分の時間を削って何かしているという事はとってもみっともないことだし、誰かが非難するだろう見たいな思いがどこかにありました

人の生死にも強い関心を子供のころから持った 父は年を取った人を見看りに行くというのをかなりの部分を占めていた そのことを母から今日はそのようなことだから父は遅くなるとか言われた(帰った父を見て又一人亡くなったんだなあと思った)
そういう本に惹かれたたことはあった(人の生死に関する事)
大人になるにつれて太宰とか、悪ぶってとかそういう風に生きている文章に引かれて一生懸命読んだ  父は医者になりたくなかったのに家業を継がされた 
父は夢をつなげさせたいと思ったようだ
その一つが仏教関係の仕事をやらせたかったようだ  父はインド哲学、等を一生懸命薦めた

何か人のためになりながら、暮らそうとは小さい時から思っていた
坊さんとか、聖職者、弁護士とか頭の中に湧きあがったが、モデルになるような親戚がいなかったので、父の医者の姿を見ていたので、自分にとって悪いことではないと父から受けていた
進むべき道を選ぶギリギリのところで、医者しかないと、医学部に行った
一番最初から患者さんを観る事を思ってました 教育者、研究者への道もあったが、患者さんとつながる医者になろうと思った
山本周五郎の赤ひげが私のフィーリングと、とてもピッタシあって、ほんの少し力を貸すというぐらいがせいぜい医者ができる事だろうと山本周五郎はその小説の中で言わせている
大それたことはできるとは思っていなかったし、ちょっとだけ患者さんに治るお手伝いをするというような医者になろうと思った

小児科を選んだ理由  小さい時からスキーをやっていて、大学でスキー部でやっていた
スキーの部長が小児外科の教授だった  医局に出入りしていた(そこの人たちは大酒飲みが多かった)  私は酒を飲む会ではだめだったので外科は駄目だと思った
小児科が一番飽きないでやれそうだと思って小児科を選んだ(いろんな理由が絡み合って入るが)
3年目のころに結婚したが私のボスは、当時部長が二人 山本高治郎先生、西村昂三先生
山本先生から結婚式の挨拶で 無口でこんな風にしゃべらない先生はあまりいないとおしゃった
しゃべらないほうではないと思っているが静かな方だったと思う 

小児がん 当時全く治らない病気だった 小児がんを専門にしようと思って、一生懸命、みとり 亡くなってゆく子供たちを世話を、ケアをした。  
段々と小児がんが克服されてゆく時代が始まって、その中で私の思いも、もっとやれるという事に目覚めて行って、結構人間の力は、捨てたものではないとの思いはしばらく続きました
しかし、人間は生き物なので、全員が治る事は望めない  1~2割はどうしても治せないという時期が来てしまうという事が、振り出しに戻るというか私の最初のころの思いが、もう一回 そういう感覚が本当なんだなと戻る

俳人でもある 細谷喨々の俳号    医者になるずっと前から作っていた(高校生)
休んだ時期はアメリカに行っている時 それ以外はずーっと俳句を作ってきた
東北は芭蕉が歩いたところなので、俳句をやっている小さなグル―プがある
祖父、父も俳句をやっていた 父を越せるのはこの領域だと思った

「死の日への 移りて重き 聴診器」  最初に患者さんが亡くなった時の句
心臓が止まって いくら聴診器をあてても鼓動が聞こえなくなってしまった
蘇生処置をやっていたが、駄目で 段々その子の身体が冷たくなっていった
首にかけている聴診器が重く感じた
 
ため込むことは私の性分上もなかなかできないので、はきだす為の一つの手立てとしては、俳句は私にとって重要なものでした 
 
「生き死にの 話を子らに 油照り」  子供たちとキャンプをしている時 油照りとはじりじりて照りつけるような暑さをいう  自然の中で植物も人間も動物も皆 生まれてきて、死んでゆくという存在なんだという事を話したことがあって、そんな事を子供たちに話したことは私にとっても、相手が子供であるという事が私にとっても特別なことで、子供たちがどういう風に思うだろうとか、自分が子供たちだった年齢だったころに、こういう話をどういう風に思って聞いただろうかと、思いながら話すので、読むとその時の雰囲気がよみがえる しおりみたいなもの

1977年にアメリカのテキサス大学に行く 臨床と研究  まだ日本ではほとんど治るという事は望めない、そんな時代でした
アメリカに行ったら随分違っていて、大人になって、自分の子を連れて、赤ちゃんを産んだお母さんが、小児がんを克服して自分の子を連れてくるという外来が実際に行われていて、凄いなと思いました  治療法の違い 次々に新しい薬を開発をして、承認の早さがアメリカではあり  その体制の違い などで日本には薬が入ってこなかった

アメリカにいるときはアメリカに染まっていた 行儀の悪さを身につけてしまって、日本に戻ってきて、最初は大変だった  
日本人同士で判りあえるウエットな感じが懐かしかった
まだまだ日本はアメリカ風にひとりずつのプライバシーを守ったり、子供たちの人権を守ったりして、子供たちに病気の話をきちんとしてから、治療をすることがなされていない時代だった
話さなければとの思いと、日本の今までの状況の心地よさを感じながら、どっちつかずで最初のころはいた