2013年5月10日金曜日

細谷亮太(小児科医)       ・難病の子供たちと生きる 2

細谷亮太(小児科医)・ 難病の子供たちと生きる
医師を辞めたい事もたびたびあった(患者さんのそばに居ながら頑張るという事がたまたまあった又一日も二人が無くなるという事があると、とても落ち込んでしまうようなことがよくありました)

「どれほどの 鬱なら病 はなみょうが」  鬱になって精神科の医師に診てもらった方がいいかなと思いながら踏みとどまっているような状態の句  はなみょうが みょうがの花が薄暗いところでポット咲いている 自分の気持ちを託すのにはぴったりの花だとおもえた
つらいんだったら辞めようかと思った

「ひながしの 血の色医者を 辞めたき日」 こんな華やかなお菓子を見ても血を連想する 鬱になっている状況
鬱っぽいまんま、仕事をやめないできた最大の理由は昔に診た患者が、何年も何年もたってから他の人の口を介して私にいろんなメッセージを送ってきたことがすこしずつ貯まってきて、死んでも人間は終わりではないのだなあと、私がその子のことを覚えている間は、その子が私の中にいるんだというような、感じがして、そういう仕事をしながら、その子のことを思い出してあげるという事が重要なんだという気になった  その後はやめようとは思わなくなった

四国に遍路に出かける  30年の勤続のご褒美に10日間の休暇をもらったのがきっかけで、歩き遍路を始めて、以後ゴールデンウイークを利用して、ずーっと続けてきて去年88か所いけて、結願しました
雑念は湧いてこないもので、ひたすら時間がたってゆくなかで、一歩一歩ひたすら歩む
「遍路道 落ち椿踏まぬよう 踏まぬよう」 椿の花はポトンと落ちる 遍路のひとは踏まぬように歩く 情け深く歩いている状況が続く

今小児がんは8割ぐらいが治ってきている  医学の進歩は素晴らしい 
実際100%直せるものではない 1~2割はまだなくなってしまう子がいる
同じ状況になる場合が沢山いなくなった分だけ、支えてあげる側の思いが濃くないといけないのかなあと感じます
子供にも告知する時代 1994年に日本も子供の権利条約を批准する
子供も自分の体に何かされるときに、自分の意見をまとめて発表してもいいという権利が保障された  アメリカは1977年ぐらいから、子供たちに病気の話をきちっとして納得してもらった上で治療しようという試みがずっと続けてきました 私が帰ってくるときにその道の大先生が、私におまえが日本に戻って最初にやらなければいけないことは、病気の子供たちに病気の話をすることだと宿題をもらったので、それをやらなければいけないと、一番最初に話したのは戻ってから6年後、1986年でした とても話をするのは大変だった 1997年以後もゆっくりゆっくり浸透してきてはいるが、皆に話すのは難しい所がある

告知される側も揺れ動くところがあるのでは?  揺れ動く気を支える事が出来ないだろうから話すのはやめようというのが、日本の小児科医の1980年代の半ばまでの常識だったが、でも実際にやってみて、サポートしながら子供たちを調べてみると、話した方の子供のほうが、治療中の落ち込みも少なくて済むし、治った後の抵抗の仕方も上手にできることが分かってきたので、できるだけそちらの方に向かった方がいいと日本中の小児科医が思っていますね
サポートが、チーム医療が進んできたので、看護師さん、ソーシャルワーカー、小児心理とか様ざまな人たちがたくさんかかわるように
なってきて、話すことが容易になってきているし、子供たちも上手に受け入れるような環境が整ってきていると思う

定年を過ぎたものが関わっている事は後進にも問題があるので、1対1での場が残っているのでこの道に進んだ
ドキュメンタリー映画「大丈夫○ 細谷亮太の言葉」 3年前に映画化された
自分の将来について明るく語っていたお子さんが今はいない という現実が描かれている それが重くのしかかっている   癌と戦っている子供たちが1~2割が亡くなってゆく現実を描いている   いなくなってはいるんだけどやっぱりあの子はいるんだなと私などは思う
不思議な祈りみたいな感じの物を見る人に与える映画だと思います 伊勢真一監督

「大丈夫」はどうも私の口癖のようだ 大丈夫の後にある雰囲気があるので○となった
治らなくなった子供に対しても大丈夫な間は大丈夫 「今日は大丈夫」と言っている
本当に大丈夫?と聞き返す人はいない  大丈夫はお祈りのようにお互いが確認していると思っている
本当にもう我慢できないような痛み、苦しみが来たら、ちゃんといたくない様に神様仏様が、してくれるから「大丈夫」というような大丈夫だったりする
だから私の「大丈夫」はアーメンであたったり 南無阿弥陀仏であったり、南無妙法蓮華経であったり、する  そういうお祈りの言葉と言うかお題目でもあるんですね

キャンプを始めたのは? 告知をされた子供たちは、数は限られていた 自分たちだけでなく仲間がいるんだということを確認できるような事が、必要であろうと キャンプが始まった
最初は、新聞社が後援をしてくれて、製薬会社のヨットをやっているような人たちが手伝いたいと言ってくれて、乗馬療法をやっている人たちが手伝ってくれたりして、結構最初のキャンプは大掛かりで100人くらいの規模で行なわれた  半分が患者  次も絶対来たいと言うような感想
写真、文章では伝わらないぐらいの状況だったので 映画を撮ろうとの話があった

ゲーム、パソコンとか人との話、語らう事が一般的ではなくなってきている日常を過ごしてきている子供たちが全くそういう事から隔絶されて、人間の声、自然の音、周りを取り囲む自然の風、自然の中で3日間 4日間を過ごすことが、どれほど人間らしさと言うか感情を豊かにするか、と言うのははたで見ていても吃驚するほどだった  自分たちも子供たち自身も、自分の変化を十分に実感できる体験だったと思う また絶対に来たいという子がほとんどだった

日本中でキャンプに参加した人達が小規模ながら、キャンプをしてくれるようになった 
いろんなところで行われるようになった  北海道 滝川 自分のところで使っていた牧場が何かに使えないかという事で、キャンプ場を作ろうという事になった
ソラプチキャンプ場につながってゆく  横山先生(清七)東海大の小児科の先生が私たちのキャンプ場をとても大事に思ってくださっていたので 北海道のキャンプを作る会の会長になっていただいた
ソラプチの会は始まった
費用はなかなかうまくいかず、横山先生も癌で亡くなる 段々募金が集まってきて 企業、財団、篤志家などが多額のお金を出していただいて、公益の財団法人になってキャンプ、施設が出来上がった(昨年)
 
今、最終的にアメリカのグローバルのキャンプと姉妹キャンプになろうと動いている
キャンプ場の特徴 何万坪と広い、70名が泊れるキャビンがあり、市立病院とも連携している
町が協力体制を取ってくれている
家族が一緒に来られたなあと思っている
難病の患者が家で両親から子供時代を送っているが、何とか明るいものにできないかと思っている(いろいろな面で環境を整えた施設)  小児のホスピス  
レスパイト 子供のホスピスの一環になったらいいなあと思っています
建物はでき上ったが、運営をするのにお金がかかる 運営してゆくのも難しい 
さまざまな人たちの手助けがあって、援助があってこれからやっていかなければならない施設が私たちの施設だけでなく日本中にあるので、手助けしてくれるという事をお願いするという事が私の仕事 勧進を続けることが重要な部分を占めるとおもっっている

40年間を振り返って、沢山の亡くなった子供たちの思い出がメイン 
私の40年は、治らなかった子供たちとの40年だったんだなあと思う
その子供たちの思いをすこしずつ実現してゆくために余生があるのだろ思います