2013年5月18日土曜日

佐伯順子(同志社大学大学院教授) ・ハンサムに生きる

佐伯順子(同志社大学大学院教授)・ハンサムに生きる
佐伯さんは命を生み出す性である女性の生き方と社会のかかわりを研究しています
今、幕末から明治という激動の時代を、夫 新島襄とともに時代を切り開こうとした新島八重に思いを寄せています  
佐伯さんが古代から近代まで様々な女性の生き方を探るうちに、行きついた一人が新島八重でした  新島八重は会津藩の砲術師範の家に生まれ、戊辰戦争では男の格好をして最新式の銃を携え籠城戦に参加し、後に幕末のジャンヌダルクと称されました
戦に敗れた後は兄を頼って、京都に移り住み、同志社大学の創設者である新島襄と知り合い、洗礼をうけて、結婚、洋服を着て、洋館に住み、洋食を食べて、レディーファーストを実践するなど時代を一歩前を行く夫婦像を打ち立てました 
夫の譲は八重のことを決して美人ではないがハンサムな生き方をする人と称しました
夫を亡くした後、八重は赤十字の活動に参加し、日清日露の戦争では、軍の病院に赴いて傷ついた兵士の看護にあたりました
又、女子教育と社会奉仕に生涯を捧げました

新島八重は男の子ぽい子供だったと言われています
兄に習って砲術とか銃の撃ち方を勉強して男勝りだったので、米俵を持ち上げるくらい力があったといわれるような活発な女子だったようです
自分の興味関心と言うか得意な分野を活かして社会貢献したいという気持ちで、会津の戊辰戦争が起こった時に、籠城して官軍と戦ったと言われています
非常に彼女が凄いところは、過酷な経験だったはずなんですが、後に振りかえって、戦とは面白いものだという風に思いだしていて、彼女としては戦争は悲惨なものなので、それに賛成するというわけではないんだろうけれども、必要な戦わなければいけない時には、潔く戦うと言う事を非常に誇りとしていたと思います

勇ましく自己主張できる女性の象徴として、池田理代子さんが書かれた、ベルサイユのばら
という男装してフランス革命に身を投じた ジャンヌダルクと似たイメージで日本の女性の憧れのパターンになっていると思います
明治以降の女性の歴史を研究していて、明治時代は非常に格差社会、華族の方々は社会的なステータスが高くて、生活の心配がない、一方では夫と一緒に働いて子供を育てるというのが当り前というのが沢山いて、そういう多様な女性の生き方が格差として存在していた時代があった

女性は結婚したら、出産したら、家庭に入ってひたすら夫を支える役割が理想化され、求められてゆくようになる  外で仕事はしない様な生き方になってゆく
時代時代に依る女性の生き方の可能性であったり、限界だったりと言うものを考えさせられた

襄の留学は森鴎外、夏目漱石といった人のドイツ、イギリス留学とは全然違うパターンの留学をしたと思う 彼らはキャリアを積んで、目的意識がはっきりしていたが、新島襄はまだ流動的な時代に密航と言う破天荒な形で良くやったなという形で海外にわたる
白紙に近い状態で海外を観る ハーディー夫妻のもとで生活をしながら現地教育を受ける
ライフスタイルを含めて吸収をした  そこから養った女性感は新島八重にフィットしたのかなあと思います

襄と知り合った いろんなことを影響を受けている  洋風の家に住んで、洋食で食卓を囲んだ
頭だけではなく、身体でかなり洋風の影響を受けた 着るものも洋装 (当時としては極々まれ)
八重の場合は宣教師が身近にいたりしていたので、自然だったのかもしれない
襄とはファーストネームで呼び合っていた(明治の時代には違和感があった時代)
人力車の乗るのにもレディファーストを実践 襄としてはごく当たり前なことをしただけ 妻も違和感無く受け入れた 八重でなかったら受け入れなかったかも知れない

明治の女性関連の記事を観ると、女性については美人が一つの評価になる
お見合い写真が明治になって普及してゆく 写真を使ってお見合いを進めるのがハイカラな結婚方法として注目されるようになる 美人が人物の評価を左右されてしまう
襄の場合は外見より中身がしっかりしていればそれが自分にとっては素敵な女性だとはっきり言っている(明治の男性としては珍しいと思います)
ハンサムと言う事は 自分の信念を曲げない 相手に媚びたり、迎合したりせずに自分の信じる道を貫くと言う事を意味していると思う

大胆な女性であるがゆえに譲は興味を持った
八重は介護の先駆者 兄が目が不自由になり、足も不自由になってしまって、ケアをする人が必要になって、お客さんが呼ばれたりしたときに、八重がおぶって廊下を移動したりした
妹である八重が男である兄をおぶっていくので、書生が好奇な目で見ていた と後に率直に語っている  彼女のたくましさは優しさに裏打ちされた、たくましさ
そこが非常に八重に学ぶべきところかなあと思います

私も母が倒れて、要介護になって、介護の仕方を理学療法を受けて、習ったがことがある
自分でやってみて、こんなに大変なことを八重はやっていたんだなあと身近に感じた
バイタリティーのあるタフな女性だなあと思う
キリスト教等新しい価値観に触れて、非常に大きな価値観の揺らぎを感じたけれども、新しい考え、人生観があるんだなあと考えて、おそらくキリスト教に新しい希望を見出したものと思います
キリスト教の愛 一番大きかったと思います  一言で言うのは難しいが
「心尽くし、精神を尽くし、想いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」
「自分を愛するように、あなたの隣人を自分のように愛せよ」 マタイ 福音書22章37節から39節

恋愛、愛の表現なり考え方なりは 明治時代にキリスト教なり聖書を通じて、日本の文化、文学に普及した  江戸時代は夫婦の情け 親子の情け 情けが比較的愛に近いが 
キリスト教では神のもとにみんな平等であって、そこでお互いを思いやりながら生きてゆくという教えだったので、女性にとっては非常に魅力的だった
儒教が女性の従順さ そうではなくていいんだという考え方はキリスト教に学んだというパターンが明治の女性には多かった  新鮮な魅力があったのではないかと思います

当時、女性が社会活動をできるのは限られていた (肯定的には観られない状況にあった)
看護婦として傷病兵を癒すという役割があり、八重としては、戊辰戦争のときにリアルに経験しており、何か社会のために役に立ちたいとの思いがあったと思う
其れが看護婦という仕事だった  日清日露戦争では日本の病院で看護した(八重は高齢になっていたので、傷ついた方の心のケアをしたという風に八重自身が回想している)
傷病兵の方たちの慰めになるような話し相手になったり、苦しみを聞いたのではないかと思う
早い時代からやっていたのだなあと思う

樋口一葉  世代的には八重の後の世代 八重は学歴がなかったが、もっと新しい時代に生まれていたら当然女学校に通ったと思われるが、当時はそのようなハンディの中で、自分なりの可能性を模索するという必要に迫られた
樋口一葉は成績も優秀だったので、上の学校に行きたかったが 親の負担から、女性は学問なんかせずに、お裁縫する方が、女性としてまっとうに生きられると、泣く泣く学校をあきらめた
制限された状況の中ではあるが、自分なりに生きてゆくことが八重とは似ている
自分の筆の力で何らかの自己表現をしたいと、野心的な女性だった

当時の社会情勢にもいろいろ関心を持っていた 
自分の力で生計を立てていかなくてはいけない  力強い決意を持っていた
今の女性は? 一面では公私にわたって活躍している含みはあるが、保守的な要素も併せ持っているので、女性の自由度が高まったとはいえるのかなあとは言い切れないのかなあと複雑な心境で観ている

八重 自分のライフスタイルを貫きたいと思って、その信念をずーっと貫く勇気を持っていた
高度成長期を理想化してしまうと、いろんな幸せがあるよと言う事がかき消されてしまう 
自然や命と共生するような社会なり、文化なりと言うものが見直されてゆくのかなあという気がする
今までの型にとらわれずに、新しい生き方の可能性を模索してゆく
その時に自分なりのライフスタイルを周りに左右されずに、見出してゆく、その時の心の強さを
八重の様な女性のハンサムぶりに学ぶことができるのではないかと思います