2013年5月6日月曜日

溝口熏平・中谷健太郎(旅館経営)  ・湯布院との拘わり40年

溝口熏平中谷健太郎(旅館経営)・湯布院との拘わり40年
湯布院は華やいだ観光地造りよりも自然のやさしさを味わって貰い街作りをと40年前からやって来ました
1970年 ゴルフ場開発計画 、大型レジャーセンター進出計画など、日本列改造ブームは湯布院まで及んできましたが、溝口さんや中谷さん、今は亡き志手康二さんの三人を中心に反対運動を展開してまして、湯布院の将来について町をあげて、議論してきました
お客さんが素通りする町から、一度は泊りたい街に、変えてきた溝口さんと中谷さんに、お話を
伺いました

湯布院は皆対等  子供まで熏平さん 、健太郎さんと呼んでいる
二人の付き合いは45年ぐらい おおきな旅館の経営者だった
湯布院ではなくてならない人と周りから言われている  
農村の中なので 農村の元気さを何とかしようとした 新しい風新しい心を耕した事をしたかった
農村の風景を変えた 行政などは、あれたちがいなければ町はもう少し静かでいいと言っていた

溝口さん:隣街の博物館にいました  山に登っていたので、景観、景色、樹木に関心があった
環境問題を、そんな視点で見てきた 30歳を越してからこちらに戻ってきた(1966年)
旅館業を継いだ
中谷さん:28歳で戻ってきた 会社に籍を置いたまま、ここを売り払うために帰ってきた
東宝映画会社  映画を作りたかった 黒沢さん、谷口さん 稲垣さん 千葉さんとか 助監督をした   父が亡くなって、なんとかせにゃいかんと思っていた
夕方になると蛙が鳴くのがなかなか快感だった 朝は鶏が鳴くし
子供時代の思い出はたっぷりあった  
熏平さんは安心感を感じた(健太郎)  志手康二さん ホテルの経営者 遊ぶの達人(ゴルフ、マージャン等) 皆そこに行く 人気のある人 3人で進めてきた(康二さんは亡くなる)

キーマンは健太郎さんです 屋根 茅葺き 村の人に助けてもらう そのほかいろいろな付き合いがあるので、周りの人との付き合いが楽しい出会いにしないといけないと思っていた 
どうやって仲良くしようかと、日々を面白くないと、生活できないと思った
その時に面白い人間関係に出会わないと東京に戻ったかも知れない
地元に付き合いを濃密にずーっとやってきた
村の人たち、旅館も一体だった  お互いに助け合ってお客さんを満足させる(競争ではない)
皆が顔見知りで、皆がなかよくやる 

ゴルフ場の建設計画 昭和45年 自然保護か開発か 小さな集落ではお客はこない
大きなホテル、旅館では歓迎かもしれないが、それよりも私たちは良い環境で迎えるしかないと思った  その頃は開発して、お客さんを呼ぼうという風潮だった 
あの湿原は子供のころは遊びの場所だった そこが消えることに対する異議があった
農家が全体にわたる開発の声とかで、農業が置き忘られるという恐怖心があった
文化的遊びの範囲は湯布院なんです  行政の領域は別府市なんです
異議ありという時に いけいけという感じだった(いいやすかった)
湯布院町にいうのであったならば、あの時まとまらなかったかもしれない

国立公園だったので、学者、山岳医会の皆さんなど総動員して反対運動を展開した
旅館をやっていたので、、著名な作家とか、沢山お越しくださっていたので保護運動を唱えて、
マスコミがうけて、一翼を担ってくれた
日本列島改造論でいろいろ大変であったが、環境を守ろうという風潮が根付いた
大山町 イスラエル・メギド地区と交流があった (「梅栗植えてハワイにいこう」というキャッチフレーズ 昭和40年のころ それが後々の一村一品運動につながってゆく) 
その時のスライド見るために湯布院に招いてそれで刺激を受けた

健太郎さんはアイディアをどんどん出す  自由な風土が町全体に昔からあったと思う
隠れキリシタンの里であったという歴史も影響していたのではないかと思う
いろいろあってもいいという気風があった 地域の気風は歴史しかないと思う
対立的信頼関係をしないと駄目 意見は違っても仲間なんだという想い
濃密に付き合えば、人間は変な奴でも付き合うという そういう面が出てくる
濃密でないとさらっとさらっと何の対立もしない代わりに、信頼関係も生まれない

現状よりいい生活をしようとお金が儲かるようなシステムにしてやった方がいいのではというような風潮は出てこなかったか?→周辺の人たちは、あまりたいしたことではないいことにうつつをぬかすなという根性はみなあった
どうせ自動車かっても、家を新築してもどうってことないので、もっと何かないというと、酒でも飲んで、出元はきちっとする  湯布院の様に周りから隠れキリシタンの盆地みたいに、村だけど一つの島みたいな文化形態をとってきたところでは、島抜けはしてくれるなよ、役立たずでも村に残ってくれというような、俺なんかその大将で、うるさいけど村に居れや、という事だったようだ
だから思いつきなんかも、よっぽどのことではない限り協力してもらったものです

湯布院駅 驚きと期待を持って受け入れられるようにしたかった  駅は観光客のものかとか、村の人のものかという話から始まった  いろいろな意見がでた
湯布院の村の中の人たちは痛快に思ってみてくださった人もいる 面白くないとの人もいた
しかし議論する風土が、又若者たちがそれで引き寄せられるとか、ありますね
今の湯布院 観光客が年間400万人  友達が来るように、町の人たちがもてなすような風土を作ってくれた  そしてそれが全国から来てくれる