2013年5月15日水曜日

山崎晴義(内科小児科医)     ・ザンビアから地域の赤ひげ先生へ

山崎晴義(内科小児科医) ザンビアから地域の赤ひげ先生へ
昭和35年慶応大学の医学部を卒業した山崎さんは産婦人科医として、ニューヨーク、パリ、ロンドンなどで、研鑚を積んでいた時、ヨーロッパ人として、初めてアフリカ大陸を横断した医師、宣教師、探検家でもあるリビングストンの伝記を読んで、彼のように僻地で医療に携わりたいと、リビングストンの終焉の地、ザンビア共和国で産科医として働きました
ザンビアで患者から、たよられていると知って、内科、小児科医として独立して開業、
2年ぐらいのつもりが、結局10年間 それもお金がない人には、無料で診察するなど、ザンビアの赤ひげ先生になりました
帰国後、山崎さんは神奈川県川崎市多摩区で内科、小児科を開業、以来36年間、日曜、祝日以外は休まず地域医療を精力的に、になってこられました
その原点はアフリカのザンビアにあるという山崎さんに伺いました

8時半から夜の8時半まで診察 一般的には病院は6時には終わっている 36年間続いている
(健康であったのでずーと36年間休まず続けられてきた)
夜間救急診療 手を打つ 患者さんの方もいきづらいので、できるだけ夜になっても簡単に気安くなるようにした  これも10年以上になる
子供のための特別なものは? 小児科を専門として診察しているドクターがそこに来る
行けば必ず小児科の先生に診てもらえる 制度として作った  
病院と診療所の連携 ・・・病院で普通の風邪を観たら観切れるはずがないので、重症の患者は病院に行って観てもらう 役割分担をしながら診察するという事です(定着してきた)

36年前はそうではなったので、大変だった 特に夜間は忙しくて大変だった
患者さんが 医療情報センターに電話をかけるとどこどこに行ってくださいとの指示がある
医療情報センターは最近はどこでもあるようになった(医師会で話し合ってできた)
黒いエプロン 合成皮革 インフルエンザの患者が来て、くしゃみをされると、白衣にしみこむことがあるが、そうするとその度に白衣を着替えることはできないので、黒いエプロンではさっと消毒できるようになっている

外国に14年半いた  最初アメリカ、パリ、ロンドン ロンドンにいたときにドクターロビングストンの話を聞いて、伝記を読んだ  日本ではあまり知られていない
医者で宣教師で、冒険家でもあった  200年前に生まれて、60歳のときになくなる
家が貧乏で10歳のころから働きながら勉強していた   2年間大学に通って宣教師としての、医師としての資格を取った  中国に行くつもりであったが、アヘン戦争があり、方向を変えてアフリカにいた宣教師の話を聞いて行くことになった
大陸を移動することが大変なことだった  牛車、ロバだとかを使って奥地に入って行った
ボートをカバにひっくり変えされたり、ライオンにかまれたりした

アフリカが全然知られていなかったので、宣教師としての仕事をしたかったし、アフリカをもっと知りたかったという事で、奥へ奥へとはいって行った(今では想像できないほど大変だった)
その方の勇気とど根性、忍耐力、人のために尽くしたいという心 頑固さ 等に惚れこんだ
お亡くなりになったところ ザンビア 60歳で亡くなる間 何回もマラリア、赤痢、リュウマチにかかる大変な勇気で頑張りぬいた  (最後は骨と皮になって)
ザンビアは1964年に独立して新しい国になった(英国領)  北ローデシア
海抜1000mぐらいのところにあるので過ごしやすかった

私が想像しているようなところではなかった  立派な政府の病院があって、設備も立派で、何人かのインド人の医者もいました  
1965年に行った  30歳の時  1年間は日本人を観たことがない 現地人のみ
勉強しないといけないので アメリカのライセンスを取り、2年半いく(日本のお粗末さを感じた)
パリにも行ってみたいと思って、パリにも行く  シュバイツアーの話を聞いて、アフリカに行くためには免許を取るのに5~6年かかるといわれて、英国では簡単にライセンスを取れるというのでライセンスを取得する  (ザンビアが英国領であったため)  それで行くことができた

行ってみて、想像していた以上に開けていた  
産婦人科医としていった それだけで大変な仕事であった
ザンビアでは帝王切開などをして子供を取り上げたりした(子供が大きくなりすぎて出られずに子宮が破裂して亡くなってしまうようなケースがあった)
新しい症例を挙げればきりがない  政府の病院の産婦人科にいたので、へき地からセスナ、ランドクルーザーで送られて来るのでその人たちを手術したりした
僻地に行くことはあり得ない、僻地にいっても役に立たない なんにも施設がなければ、なんにもできないので  

大変な忙しさだった  朝から晩まで働いて、一晩おきに当直で夜中に帝王切開が2かいも3回もあって終わると血を浴びて大変だった     若かったからこそやれたと思う
4年間働いて、取り上げた子供がいつまでも私のところに来た それで自分でクリニックを開業してそういう子供たちも観るようになった  ジェネラル メディスンですね
産婦人科はやれなくなった   患者を最後までフォローアップするオープンシステム(英、米等も同じ)

日本でもすこしずつ対応するようになった (情報 意見の差が出ない様に)
納得していただけるような治療をする
患者が高齢化して認知証になってしまう場合があるので、その場合は家族の方との話し合いをする(治療方針を決める)

後15年ぐらいは何とかやってゆきたい そのためには健康でないといけない
積極的に健康管理をしている  毎晩終わってからスポーツクラブに行っている
運動することによって熟睡する  プールに入っても泳がないで歩く (歌を歌ったり、一日の反省をしたりする)  食生活も気をつけている
 
病気だけではなくて、患者さんを観てあげる(何でも聞いてあげる)