2013年5月14日火曜日

伊東豊雄(建築家)        ・震災から変わった私の建築 2

伊東豊雄(建築家)  震災から変わった私の建築 2
1941年生まれ 韓国のソウルで父は働いてきた  2歳で引き揚げてきた
少年時代の思い出は長野県に塩沢町 に2歳から中学までいた
野球少年で野球は大好きだった ランドセルを忘れて学校に行くような少年でした
小学校の時から絵を描くのは好きだった  父親は材木屋だったので、人の家の図面を書いたりしたのは、はたで見ていたが、建築屋になろうとは思わなかった
中学3年に東京に転校した  高校でも建築の事は考えていなかった
大学に行って野球をやろうとしか、考えていなかった
諏訪から、当時蒸気機関車で6時間ぐらいかかった
  
高校で進学するときに、希望を出すが、成績が悪くていける学科が少なかった
建築家辺りが、いけそうかなあと思っていた
オリンピックの前だったので、新しい動きができてきた時代
大学生4年のときに、菊竹清則さん 30代半ばのひとのところに1カ月アルバイトをする
そこで大変刺激を受けた  建築は論理的に作るものだと思っていたが、論理なんか吹っ飛んでしまっていて、皆が凄い集中で、一つのプロジェクトに向かって、ある時間に集中して考える
その中から何かが生まれてくるという、その生まれる瞬間、アイディアがこうやって出るんだと
いうのは、論理を越えて、身体の奥深くから放たれてくるような、そういうものなんだと観たときに
あー建築とは凄いものだなと思った  わくわくと言うような気もちとは違う、すげーというような
創造とはこういうものだと思った 自分もやってみたいと思った

アルバイトの最後の日に、来年、来てもいいですかと言ったら、良いですよと言ってくれた
翌年から4年間働かしてもらった
最も刺激を受けた、何か自分がつかむことができた時代だと思います

60年代後半 ピークを迎える時期、 大学紛争が激しくなった時代  
大阪の博覧会と69年の大学紛争、2つの事件は自分にも大きな影響を及ぼしていた
60年代、未来都市はこういうものかなあと思っていた期待が、大阪の博覧会をみて、この程度のものだったんだという落胆さと、学生運動で何か社会を変えたいという若い人の気持ちへの共感とが入り混じって、自分で何もこれからの将来についての展望がなかったんですけれども、一度自分で白紙の状態で考えてみようと思いました

65年 東京オリンピックの施設は良かったと思ったが、大阪の博覧会の施設は総決算的なもので、もうその先は無いようなところへ来てしまっている(デザイン的にはもう先が見えたというか陰りが見せ始めていた  建築家としてはそう見えた  博覧会には一度も行っていない)
大学に戻ろうかと思ったが、大学も紛争していたので、兄弟が自分たちの家を設計しろよとか知り合いの住宅を設計したりしてなんとか食いつないだ
1971年に、最初の作品 アルミの家を設計  個人の住宅しか手掛けていなかった
1年に一つか二つしか設計してなかった(30代半ばまで)

どうやって生きてたんだろうと、いう時代が一番何か思い出深いし、良い時代だと思う
外に行って飲む金がなかったので、オフィスの中に酒を買ってきて、飲みながら翌朝まで建築論を戦わしたりした
日本がバブル経済に向かってゆく時代になって 80年代 夢の中を歩いているのではないかと
思うようなきらびやかで、現実感が失われている状況
そういう時に、こういう街の空気と言うのはどういう建築になるんだろうと考えていた
その頃は都市一筋だった  重さを持たない建築を作ってみたい、というイメージをしながら作っていた  

80年代末から90年代にかけて少しその空気は変わってきた その頃に熊本で初めて公共の建物の設計のチャンスを作ることができた(八代市博物館  でき上った時は50歳)
このおかげで90年代は公共の仕事に携わる事が出来た
発注は自治体、利用する人は違うわけで、利用される方方が直接見えてこない
自分が創造しながら、設計に組み込んでいくか、違った難しさがある
公共の仕事をしない人は、ヨーロッパでは建築家とは呼ばないんだよと、先輩から言われていた
公共の仕事をしてある種の充実感はありましたが、すごく難しい問題があることに気がついた

日本で公共の仕事は、この街にもこの街にもあるような図書館とか、ホールとか どこにいてもあるものが望ましい 問題が起こらないから でも本当に居心地の良い建築だろうか そこにいて楽しい建築だろうかと、考えると、決してそうではないんじゃないかと、思った
少し解放するといろんな楽しいホール、図書館ができるはずだと思うが受け入れてもらえ無い(でき上ってみると、こんな楽しい建築があったんだねと言ってくださるが、でき上るまでは創造が浮かび上がらないので、こんなの嫌でねと言われたりするケースが多い)

仙台メディアテーク  外側からと中から見たものは全く違う  太陽が当たる側が全面ガラス張りで外にいるような雰囲気、ソファーに寝そべりながら本を読んでいる(大きなリイングの大きな本棚の様なイメージ  使ってみて通うようにならないと良さが分からない)
模型を20も作りながら、創造しながら、一つ、一つチャックしてゆく
本当に好きだと思ってやってんの、ただこれ良いアイディアでしょうと言うような気持ちでやっていると翌日すぐに消えてしまうよ、と若い人に言ってるんですが(菊竹事務所で体験したことをみんなでやっていきたい)

世代の違い 伝わりにくい  対話しなくなってきている 議論することは避けたがる
これつまらないよねと言いうと、昔のスタッフは、翌朝までに何かまた新しいことを考えてこれならどうですかと、やってきたが、今の人は「ああ そうですか」と 引っ込めてしまう(対話にならない)
使う人たちとの対話 大事   他者との関係の中で建築ができてゆく 多面的な行為なので、もう少し自覚するような教育をしてほしいとは思うが、そうなっていないのが実態の様です
 
子供たちに建築を教える「伊東塾」をはじめた  一緒に小学生と考えてみようと思ったら、大人の塾より面白い、奔放で  論理的にもある程度考えるので、本当に面白い
最後模型にしてプレゼンテーションしてもらう
人が集まって、初めてそこに場ができてくる  その場をどんな形にするのが建築だと思っている
話を進めるうちに、日がたってくると 段々家族の暮らし方がこどもにも判るようになる
1年たつとかなり変わる 模型を作ることも、考えていることも変わる

私たちが考えてきた建築って、近代主義の建築 如何に機能的か、如何に性能がいいかとかそういう事が非常に重要だと言われた時代に、私たちも建築を考えてきました
それを一番達しうるのが、都市であるという風に考えてきたが、震災を機にもう一回ゼロに戻した時に、もっと豊かな暮らし、人間らしい暮らし、それに見合う建築は近代主義とは違ったところにあるのではないだろうか もっと自然の中に開かれている暮らし、人と人とがなごみあえる暮らし、それを実現できる建築とはそういったものなのか これはゼロから見直さないといけないと思っている
2年という年月を経て、冷静になって、自分が作ってきた建築と震災を機に考えてきたことが、一つに組み合わされて、これからどんな建築を作ってゆくべきかすこしずつ、整理されてきた