2013年5月13日月曜日

伊東豊雄(建築家)        ・震災から変わった私の建築

伊東豊雄(建築家)  震災から変わった私の建築
国内だけでなく、イギリス王立建築科協会のゴールドメダルを受賞するなど、世界的に活躍する建築家です
東日本大震災の後、知り合いの建築家五人と共に被災した人たちが気楽に集まれる場所、
「みんなの家」作りに乗り出します
陸前高田に作った皆の家の製作過程を、イタリアのベネチア ビエンナーレ 国際建築展に出品、世界各地から評価を得てパビリオン賞 を受賞 、3月には建築界のノーベル賞と言われ、優れた建築家に毎年贈られている、アメリカのプリッカー賞を受賞しました
この受賞は日本では丹下健三氏や安藤忠雄氏に次いで、6人目です
審査員からは建築のスタイルを革新し続けていると高い評価を受けたとのことです

大震災後、被災地には30~40回は行っている  
当日は、自分の居る建物も崩壊するのではないかと思っていて、冷静にはいられなかった
仙台とは連絡が取れなかった(仙台メディアテーク 伊藤さんが設計した仙台にある情報センター  図書館を中心にメディアを複合的にしたような建物  ちょうど3.11の翌日が10周年のお祝日をやることになっていた) 翌日連絡がついた(天井の一部が崩落)
一日も早いオープンのお手伝いができるかどうか、気になった(責任を果たしたい)

大震災から3週間後に仙台メディアテークに行くことができたが、東海岸を市の方に案内してもらったが、あまりの惨状に声も出なかった  呆然と見つめていた
それからすこしずつ建築家として何ができるんだろうと、考え始めました
ひたすら、こんなことがありうるんだろうかとの思いがあった
3月の末に建築家5人で帰心の会(5人のイニシャルを取ったもの  妹島和世 山本理顕内藤廣 隈研吾 と私) 自治体から声がかからないけれども建築家として、何かできるものがあるんだろうか、と それを考えてみたいと集まった

東北大の小野田泰明先生を通じて、釜石市の復興に手を貸してくれませんか、という事を依頼されて、5月3日に初めて釜石市を訪れた
被災した方たちらも含めて話し合う機会があったが、私たちが思っているより明るく前を見つめているというか、何かをここでやらなくてはいけないとの思いを感じて、きっと私たちにもできるはずだと、その時に思った
建築ってなんだったんだろう、家ってなんだったんだろう 、家族ってなんだったんだろう 何にもなくなってしまったときに、皆で考えてみようという事になった

「みんなの家」 私が釜石に行き始めたので、釜石で避難所を訪ねて、そこに住んでおられる方に話を聞いてみると、皆で一緒に話す場所が欲しいという事をおっしゃる
仮設住宅でなくても、ここでいいからもっとみんなが食事ができたり、話ができたりする場所が一番大切なんだと、特に高齢者が言った   それならば避難所の中に大きなテーブルを置いたらすぐできるだろうと思ったが、仮設住宅ができるようになって、移る段階になったので、それでは仮設住宅の中に何かそういう皆さんが集まって心暖めあえるそういう場所を作りたいと思ったのが「みんなの家」の始まりです

気取った名前ではいけないと思い、高齢者でもわかるように「みんなの家」にした
最初は 熊本県知事に話が伝わり、良い話なので支援をするという事になり、熊本県は宮城県と親しい関係にあって、仙台市長に相談に行ったところ、宮城野区に案内されて訪ねた
みんなで一緒になって考え、みんなでつくろうとの思いもある(利用される方、吾々、施工者、ボランティアの人たち)
話し合いをしながら、できるだけ要望を入れて、みんなの家を作っていった
宮城野区に関しては熊本県が資金を提供、屋根材、キッチン、サッシとかメーカーの方から無償で提供してもらった

その後は我々がいろんなところに声をかけて資金を提供してもらった 
海外の団体、企業の方が資金をしてくださるという事が多いです
現地に行き始めると、現地の方を見ていると、又来週行きたいと思うんですね
いろんなところにいろんな人がいて、皆さん本当に普段の状態よりも、人間らしくなると言うのかなあ 非常に自分の内面を隠さずに出してくれるし、凄くお互い住民同士が励ましあったり、とにかく凄くいい
最初はどう声をかけたらいいかと思って行ったが、それは一瞬で、皆さん明るい感じだった

釜石、東松島、陸前高田 と6軒目ができたばっかり 東松島には子供のみんなの家を建てる
童話の中から出てきたような家を建てた  話の読み聞かせをできたり、アルミのドームでできているが車があって、引いていって野外ステージができるようにした(子供の遊べる場)
場所場所によってニーズをくみ取る
釜石では商店街のためのみんなの家を作りました
復興の拠点になるべく、ある種の仕事の場    まだまだ集まる場所がない

東京にくらべて人と人との繋がりが強い、地域のネットワークが資源の一つみたいなものがある地域と結び付いているので、より親しくなっている 
心を暖めあう、みんなで作る、ここで自分たちはどんなものにしていきたいという拠点
なかなか政府の復興計画では住民の意思が汲み上げられない、逆に住民が話し合って、それが自治体の声になって届いていくような、もっと人間的な復興計画のはじまりなんですけれども

意見の取り纏め難しかったようなことは?  意外になかった  普段の公共移設をやっていると結構いろいろ言われるケースはあるが、今回は心を一つにして作りましょうという事で、皆がありがたいと言って、喜んでくださる(自分たちが関わりあって作ることに参加する)
物を作ることに喜びをみんなが味わえる(みんな無くなった状態での活動)

造り上げてゆく過程をベネチュアビエンナーレ 建築部門に知らしめた
2年に一回行われる 私が日本館のコミッショナーを務めさせてもらったので、今回はみんなの家を5人のチームで作ろうと 陸前高田の畠山直哉さんという写真家と40歳ぐらいの若い世代の建築家 藤本壮介さん 平田晃久さん 乾久美子」さんの3人 と一緒になって 陸前高田にみんなの家を作りましょうと 日本館で写真などを展示して、世界の皆さんに見ていただこう それを通じて、建築ってなんだったんだろう、 家ってなんだったんだろうと 普段忘れられている問題を世界の建築関係の人に投げかけて見ようと言うのが趣旨でした

無事に完成して、現地の皆さんが喜んでいる様子が映像で流れている
始まって、一年後に展示がうまくできるのかの保証は何もなかったので、非常にリスクはあったが、幸いに皆さんが物凄くエネルギーをつぎ込んで、毎週のように集まって議論しました
(実は200個ぐらいのスタディーモデルを作った) 
現地で菅原みき子さんが登場して、熱のある議論になってきた

そこに注がれたエネルギーが館内にみなぎる  
畠山さんの写真 町を見つめる目は特別な思いがあったと思います(実家と母親を亡くされた) 
写真に現れていた(感動を呼ぶものであった)
模型を見ながら、建築とは何だったんだろうなあとスタディーの過程を見てもらって、考えてくれたと思う   
陸前高田の立ち枯れをした杉を使って柱にした(モニュメントの様な)
パビリオンの最優秀賞をいただいた
被災地での復興 思うようにはかどっていない  復興の難しさ  
未来に希望が持てるような、なにか こんな町になるんだよと少しでもお手伝いができればと思います  いつまで我慢しなければいけないんだろうとの思い、厳しい
復興に計画が具体化しつつあるので、これからの街を作っていけるような、単に復興と言うのではなく、ここから日本の新しい街ができるんだ、ここが最先端の町なんだというような町を作らなくては嘘だと思うんですが、まだそこまではいっていませんね

いままで私たちは都市に向かって、建築作って行きたいと思って来たような気がする 
特に大都市に向かって、一番魅力があって、便利で 、効率のよい生活があるんだとみんな若い人はひたすら都市に集まってくる、それが100年ぐらい続いたんですけれども、そうではなくてこれからはもう少し、もっと自然と共に暮らすとか、人と人とのつながりを大切にして暮らすとか、これから時代が変わってゆくような気がするし、変わってゆくべきだと思っているし、若い人たちが好んで移って行きたがるような新しい街を作らなくては行けないなあと凄く思います

「みんなの家」で、土間が沢山あるとか、そこに薪のストーブが燃えているとか、縁側があるとか
そういう建築はあんまり建築家は考えてこなかった
近代的建築を考えてきた  こんなに縁側が役に立っている、都会でも土間がある暮らし、縁側がある暮らしを我々は考えなければいけないなと、そうやって外とつながってゆく、建築の在り方、街の在り方がありうるなあと凄く痛感しました
自然に対して開きたいとは思っていたが、この境界は越えられなかったが、小さなみんなの家を作ることによって、大きな建築でももっともっとやれる事があるなあと思い始めた