溝口熏平・中谷健太郎(旅館経営)・湯布院との拘わり40年
健太郎さんの欠点:発想がユニークだから、欠点と言えば欠点、後をついて行く方が大変(熏平)
熏平さんの欠点:欠点を思いつかせないところが欠点かなあ(健太郎)
年を取ると短所が長所になるところがある
ヨーロッパに3人で出かける(志手康二さんと一緒)出かける 大正13年 東大の名誉教授の本間静六さんが湯布院で講演している 講演録が湯布院発展策、湯布院はドイツの保養地、温泉地を観て、町全体をそういう保養地に 大正13年にここで講演しているという事で、1971年にドイツに行こうと、自費で1カ月出かける 金がなく火の車の状態のときに出かける
イチゴ栽培の視察に行くという名目で、やっと農協から借りて出かける
目的は湯布院としてどう走ってゆくか(当時日本列島改造論が怒涛のように駆け巡っていて、さらに競争と言うんじゃなくて) 実際にどうするか 保養滞在とは 何にも判らなかった
いろんな調査したら、ドイツ系の私の友人が、いろんなドイツの良いところの情報系と結んでくれたりして、ありとあらゆる紹介や推薦を取りまとめて、持ち込まれて、本気で湯布院が滞在保養と言う事を言うのであれば、それがどういうものかという事を見て、その勢いで押すのであれば、
行ってみるしかないという事になった
ただでとめてくれる所があるとの情報もあった、東ヨーロッパから逃げてくる人を中心に結成されていたので、そろそろ落ち着いて逃げてくる人が少なくなったなあと思う頃を見計らって、我々も手を挙げて、逃げてゆきますと言うような格好で行ったので、50日間宿泊がただでできた
衝撃的によくわからしてくれた 2泊まではただ 一般の家庭に泊めてくれる
そこで実感することができた 家族が皆で温かくむかえてくれえる
潜在能力提案システム 宿泊だけは対応できる 食事だけは、案内だけはできる等
ドイツではきちっと決めたことはきちっとやる 所がバデンバイラーと言うところだけは、うちは違うんだと、お客さまが望むサービスをするから、望むサービズ料を提供しなさいという、一種ドイツの統一的なシステムの中では、反逆の町だった
戻ってきて、展開しようにも周りからは理解されずにいたが、地震(昭和50年)が発生して、被害が多く発生、その時になんでもいいからやってみようとの機運が生まれた
その時の一つが辻馬車 今も走っている 当時日本の温泉街は「赤い灯、青い灯」と言うような世界であった、だからそういう点では革命に近かった
何を求めているか、お客さんからの情報を旅館のオーナー同士が集まって、共有した
音楽祭、映画祭、絶叫大会等いろいろ開催した
室内楽は最後まで残った なんでもやって生き抜いてきたのが、残った
夜空のなかで管弦楽をやる ドイツでの催しとも重なる
絶叫大会 山で怒鳴ろうと、楽しむ (日本中の中から集めた牛の畜主と共に)
別荘主になるよりも牧場主になりませんかと、展開する(土地を売ってしまうのを何とか防げないのかと思案して、アイディアを出した)
父親の代とは全然違う忙しさになった
映画祭 一緒に見て、そのあとシンポジウムをやって、夜の10時ごろからパーティーをやる
映画館で観てはいサヨナラではなく生の声がどんどん自分の物にも入ってくるし、監督さんの思いがシンポジウムを通して、飲むことによって高められる それがずーっと継続してゆく
1975年に起きた地震、風評でこの街が壊滅したとか、言われたりしたが、いろんなイベントの情報発信をしてきた
勝手な発想や運動が許される気風、風土がある
組織、固まるのでは、派閥ができたりするのではないかとの懸念は?
いろんなことを記録に残す 書記を大事にしてきた ちゃんとまとめて今日はこのようにした
書記がまとめたものは残る 編集して出す 役場、県庁へいったりする
「はなみずき」 花と水と木 何を大事にするかという時に 農業、観光業とか経営の話ではなくて、花と水と木が大事なんで、そういうものに恵まれた町で有れば、結果として農業、観光業、商業もはやるのではないかという願いを込めて、雑誌を出し始めた
それを出してゆくから、苦情等も出てくる
「風の計画」とかもだす ばらばらでもいいからそれが保たれてゆくことに役だったかもしれない
様々な意見がそこに書かれていて、皆がそれを共有できる、これが大きい
実名で出るので、言ったことに対して責任を持つ
歴代の思いが雑誌に残る、つながってゆく
湯布院が時代を先取りしてきた 湯布院の果敢な動きの原動力になったのは列島改造論だったと思う
今、最近になってもう一度、ど根性が入ってきているのは3・11だと思う
あの後、本当に人間が幸せに生きる あるいはたとえ不幸せであっても、後悔のない生き方は
どうするという問題は突きつけられた
ゴルフ場が来るぞという問題に比べるとはるかに度合いの違う、大きな問題を若手は突きつけられている これは滞在型保養温泉とかいうなまっちょろい問題ではなくて、理想のイメージがない中で、どういうものを作ってゆくか、というテーマを抱えているからみんななかなかどうして深刻な問題を抱えながら、若い人は動き始めている そのことが問題になってくると思う
その中で湯布院でどのように安心してもらえるか、癒し、和らげる風土を 湯布院が持続して、新しい人たちがどんどん入ってくる
外から移住してくる群れ、時間的に世代が変わったために、次の世代になって、次の世代が観光業に入ってくる 農家出身の観光が中心になってくる世代が増えてくる、地域的にはよそから入ってくる 時間的には親の代から変わってしまって観光を最初から考える世代、農業やりながら商業をやりながら観光中心に入ってきている この二つの要因がこれからの湯布院の展開を牛耳るだろうと思います
次の世代が行政的にもしっかりうごめいて、法律でがっしりとこうやりましょうと決めないと
一旦入ってきた資本は追い出せない 20年後はこうしようと法的な手続がいる
それに向かってまじめに取り組む連中が育ってきている それの望みをかけている
ルール作り 行政の姿勢をしっかりしてゆくように若い連中も頑張っている
最も小さなコミュニティーは家庭 、後は職場 その二つでいいのか
昔は冠婚葬祭が厳然とあったが、最近はそれが消えてきている
それに代わるコミュニティー、出会いの場が必要です
それが我々がやってきたコーヒー店、売店作ったり それが滞在型というイメージでやって行かんかいと、いろんな出会いの場は作れると思う 結構忙しいと思う