2020年2月19日水曜日

皆川賢太郎(全日本スキー連盟常務理事)  ・【スポーツ明日への伝言】「アルペンレーサーが描く新たなシュプール」

皆川賢太郎(全日本スキー連盟常務理事)  ・【スポーツ明日への伝言】「アルペンレーサーが描く新たなシュプール」
皆川さんはアルペンスキー回転のスペシャリストとしてオリンピック4大会に出場、特に2006年のトリノ大会では4位に入って日本選手として50年ぶりの入賞を果たしました。
2014年に競技を引退、現在は全日本スキー連盟の常務理事として連盟の改革などに取り組みながら次代の選手を発掘、育成、強化する競技本部長も兼務しています。

最初のオリンピックは大学生の時の1998年の長野オリンピックでした。
2000年2月、ワールドカップ・スラローム、オーストリア・キッツビュール大会で、ゼッケン60番から6位に入賞。
ゼッケンの若い順に滑るので状態が悪くなり60番というとレーサーとしては難しい。
165cmのスキーを履いたのが飛躍の年となりました。
長野大会では2mぐらいが当たり前でした。
短くなると小回りが利くが技術的には難しくなる。
カーリングスキーはフランスの会社が一般のために開発されました。
レーサーも試したが殆どの人がこんなものは使えないと言っていました。
僕はこんないいものを何故使わないのだろうと思って、世界に4本しかないものを3本もらってその一年を過ごしました。
今では世界中のスキーの9割がショートスキーを履いています。

トリノオリンピック、2月25日一回目が終わってトップとの差は0.07秒差、で3位につけていた。
0.07秒というと20cm差での長さで、次までのその間の緊張は凄くて、なだめるためにリフトではクラシックを聴いていました。
スタート台に立った時には、それまでギャンブル性の高い滑りをしてきたのでゴールできなかったことが多くて、8割で滑ればいいと自分に言い聞かせてスタート台に立ちました。
エッジのかかりが悪くて、危ない箇所が3か所あったのでそれを抜けるまでは攻めないことにして緩斜面に入ってから120%で滑ろうと思いました。
滑り終わってからバックルが外れている事が判ってエッジがかからなかった要因だと判りました。
結果は4位になりました。
現役時代には最初右の前十字靭帯を切って、復活をしてトリノが終わってから左膝前十字靭帯断裂の大怪我をして、そのあと3回手術をして、合計5回手術をしています。

賞味期限が或るものが僕はすごく好きで、賞味期限があるというのは人の人生を一回疑似体験でする、人間が感ずる哲学とか、貴重性をスポーツ選手は一回疑似体験できる。
そういう風に現役時代は思っていました。
純度の高い時間を過ごせていました。
眼の衰えも感じてそろそろやめる時かなと感じるようになりました。
状況判断が凄く大事で、それが鈍ると勝負できる範囲が狭まってきて、結果としてありきたりな数字に変わってくる。
全部のコースが頭の中に入っていて、自分が滑る場所は一点一点ゲートが立っていて、そこをミリ単位でどう攻めるかというのを二つの頭でレーサーは考えるんです。
頭の知識はあったとしてもセンサーで一個一個のクオリティーを高めるのが眼なんです。
3歳からスキーを始めましたが、最後のところだけ少しやりたいことを人が認めてくれただけの話で、ビジネスも同じだと思っていて、起業したのが22歳で、20年ぐらいは次のキャリアのことを考えながら過ごすんです。
準備なきものは成功は絶対ないので、20代から現役を辞めたときには多少なりとも自分のビジネスが上手くいっていて、次のステージは人のためになることをやりたいと思っていたので、並行して勉強していきました。

現役の時に怪我をして8社ぐらいあったスポンサーが全部なくなって、収入がなくなりそれが突然のことなので状況を受け入れることに時間が掛かりました。
僕が現役を辞めたときには自分の収入と自分で自分のプレーを支えるお金を作るのは後半できたのでそれはよかったです。
本当に自分が衰えを感じるまで出来きました。
レーサーをやりながらレースをやる環境、日本代表という環境は僕にとってはいい環境ではなかった。
根拠のないものは凄く嫌いで、根拠のないなかで多くの選手を作ることは不可能だと思いました。
仕組みを上流から変えないことには大したことにはならないという事があって、現役を辞めたときには効率、ルールから変えたいと思って連盟に入りました。
一番最初にやったのは総務と規約規定改正だったりとか、組織の根幹を志願して2年間やらせてもらいました。
準備ができたなと思ったら競技本部長のポストを与えていただけました。
スポンサーが出してくれるお金もここで3倍になりました。
北野さんと二人での体制で連盟の収入が4億強増えています。

新潟の苗場で育ちましたが、当時スキー、スノーボード人口は1860万人もいて、そのうちどんどんその産業が疲弊していって、スキー場の数とスキー人口の分母が合わないとか、暖冬とかいろいろものがありますが、なくすとか減らすとかの作業をやらなければいけない。
今は700万人を割り込む状況にある。
スキー場の数も最大が700か所、今は400か所。
今の子どもたちにはいろいろな選択肢がある。
人口比率に対する分母とか、700か所作ってしまったものをどうするという問題、とかあります。
リフト券は日本では平均3500円、ニュージーランドでは70ドル、アメリカで一番高いのは220ドルです。
それでもお客さんが来るクオリティーと数だと思います。
これからの数十年のウインター産業は整理してゆく事がやりたいことです。
お金になろうがなるまいが雪のことをやりたいたいという人生だと思っています。

2月22,23日Audi FIS アルペンスキーワールドカップ2020 にいがた湯沢苗場大会があります。
一番人口が多いのがアルペンで、アルペンのワールドカップを定期的にやる事が非常に大事なことだと思っていて、観光のピーアールの一環でもあると思っています。
大きな意味があると思っていて準備しています。
本物を見せて本物に触れるという事が非常に重要だと思っています。
日本は雪が黙っていても降るので、自分たちの生活の中に取り入れてもらいたい、楽しんでもらいたいというのが一番のミッションだと思っていますので、引き続きやっていきたいと思います。