志賀千夏(大相撲 元大関 栃東 母) ・【アスリート誕生物語】
先代も元気で玉ノ井部屋で弟子も一緒に住んで過ごしています。
全部で30~40人います。
小さいころから骨組みはがっちりしていましたが、身体は弱かったです。
喘息がありしょっちゅう40度ぐらいの熱を出していました。
小学校3年生の頃から水泳をやらせて、段々よくなってきました。
相撲には興味がなく小学校2,3年で野球をやってきました。
千代の富士さんの相撲だけは見ていました。
先代の影響かもしれないが運動神経はよかったです。
教育方針としては、約束をしたことはきちんと守る、人に迷惑を掛けない、喧嘩になっても自分から先に手を出してはいけない、年寄りには席を譲ってあげる、そういうことは厳しく言っていました。
5年生になって、「僕がお相撲さんに成ったら喜んでくれるかなあ」と言ってくれました。
明大中野中学校に行けるようになって、相撲部に入りました。
墨田区に住んでいましたが、そこで勝ち抜いて東京大会に出ましたが、全国大会まではいきませんでした。
当初は体が硬く、脚を広げて上半身を床につける股割りもできませんでした。
泣きながら股割りの練習をやっていました。
明大中野中学校で武井監督に出会ったことが物凄く影響が大きかったです。
親子の欲目ではなくて一番稽古をして一番努力した力士だと今でも思っています。
骨盤股関節剥離をして克服して中学3年からそれなりに相撲を取れるようになって、高校1年になって、全国大会に行って予選で使ってもらって、決勝は先輩がやりました。
高校2年になるとレギュラーで弘前では3人制で先方を任され、武井先生から「志賀が必ず勝つからな」、と暗示をかけるわけです。
そこで優勝することができました。
金沢の大会では2年生で優勝して、3年生も2連覇したいと思っていましたが、東京大会で負けてしまって、「中退して相撲部を辞めてプロの世界に入る」と毎日のように監督のところへ行って言いました。(2年生)
武井先生は「お前にはインター杯で横綱に成れる力があるから、それを取ってからでもプロに成っても遅くない」と言っていました。
ブラジルから来ていた十両の子がいて「お前今ここで辞めたら負け犬だ、ここまで頑張って来て負け犬になりたいのか」と言われ、それでは頑張るという事になりました。
3年生ではインター杯で横綱になることができました。
先代は大会に応援に行ったことはなかったですが、その時の決勝戦にはこの一回だけには行きました。
国体があり旗手に選ばれていましたがそれを断って、高校在学中に玉ノ井部屋に入門し、前相撲を取って学校に行っていました。
ケーキなどを上げようとすると「おかみさん ほかの人にあげてください」とか言って受取らず、兄さんに「ほうっておいてほしい」と言っていたそうです。
親としては寂しいと思いますが、でもほかの弟子のことを考えるとそうかなあと思いました。
母であるけれども部屋の女将でもありましたから。
頑張りを見ていたら横綱になると思っていましたが、怪我が多かったです。
「この試練を乗り越えないと大関にはなれない、神様は越えられない人間には試練を与えないそうよ」、と言って励ましました。
大関になれたのは負けず嫌いと努力だったと思います。
素直でしたが頑固です。
引退が30歳、脳梗塞の再発が怖かったからです。
医師から「私の自分の息子だったらここで辞めさせます」と言われました。
若い時の脳梗塞は再発が一番怖いと言われました。
主人が引退を決めたときに、もう少し取れないかなあと思いましたが、息子に「おかみさん、もう少し自分を長生きさせてください」と言われてしまいました。
もう何も言えませんでした、わーっと来てしまいました。
息子に部屋を譲ってから11年になります。
親方として弟子から慕われるような、今の状態で頑張って行ってくれたらと思っています。
孫は娘なので、息子は自分の代で終わってもいいと思っていますが。
健康であってくれればと思います、それが私へのプレゼントだと思っています。