田島征三(画家・絵本作家) ・【人生のみちしるべ】「押し寄せる情熱で描く」前編
田島さんは1940年大阪府生まれ、幼児期を高知県で過ごします。
多摩美術大学を卒業後25歳の時に「ふるやのもり」で絵本作家としてデビュー、2年後に出版した「ちからたろう」では世界絵本原画展で「金のりんご賞」を受賞。
29歳の時には東京都の日の出村に引っ越しヤギや鶏を飼い、農作物を作り自給自足の生活の中で創作活動をつづけます。
49歳の時には「とべバッタ」で絵本日本賞を受賞、58歳で伊豆半島に移り住み、その後も木の実による絵本『ガオ』を出版したり、廃校になった小学校を丸ごと絵本にする空間絵本作品を制作するなど、常に挑戦を続け80歳となった今もエネルギッシュに製作活動をされています。
まさに森になっていてそれが好きで、実が一杯になっている時には次から次に小鳥が来ます。
キジバト、ツグミ、ヒヨドリ、メジロなどが来ています。
絵を描くよりも観て小鳥の人生、どこからきてどこにいくんだろうとか、いろいろ考えているだけでも楽しい、空想するのが楽しいです。
60歳になるときには気が付かなくて、いつの間にか70代が過ぎていて、去年79歳を意識しました。
80歳は傘寿で、元気そうに見える様で「おいくつですか」とよく言われるんです。
そうすると79歳とは言いたくなくて「29歳です」と言うんです、「来年30(傘寿)だから」と。
80歳になると覚悟がいるねと思います。
描くというのは波が押し寄せてくる波に似たような感情がして、階段を駆け下りて筆を持つようにしています。
ちゃんとデッサンはしない、下書きもしないで、いきなり描きはじめて、気が付いてつぎ足すようなこともします。
美術大学でデッサンをするんですが、評価がDなんです、「君はめちゃくちゃだ、デッサンは面白いということではいけない」、と先生から言われました。
生き物の愛おしさ、命の持っている激しい生きる力、バイタリティーが満ち溢れているという風に自分で感じる事があるんです。
これは何だろうと思います。
「ちからたろう」とか20代の頃の作品はへたなんですが、力強さは今描けるかなあと思います。
20代の肉体で描いたのだから強いんだけれど、内包された力強さを随分前から感じていましたが、80歳になって、正面から作品化しようと思って今挑戦している最中です。
「絵の中のぼくの村」という僕の少年時代のエッセー集ですが、穴の中の魚との格闘を今でも思い出します。
命がけで暴れるその魚の感触が掌に残っているんです。
愛おしさ、切なさ、激しさ、セクシャルな感触とか色んなものが相まって絵の中に出てきてしまうんです、そういうものを描こうと思っていないのに、それがどの絵にも出てきちゃう。
テクニックではなくて、自分が生きてきた道筋、自分が感じたこと、自分が体験したことが心の中に溜まっていて、それを表現しようとしたときに、絵に現れてくる、化学変化かもしれないし説明できないものだと思います。
説明できないものが芸術にはあります。
大坂で空襲を体験して敗戦になったのが5歳でした。
5歳で高知の山奥の村に引き上げていって小学校5年生に夏休みまでいました。
人間として形成される途中なので、そのころの体験が身体の奥にあって肉に入り込んでいるという事です。
絵描きになりたいと言ったら、父親が絵描きを目指すなんてさせないと怒り出してしまいました。
双子で二人とも絵描きになりたいと思っていました。
商業デザイナーなら収入が多いという事で、商業デザイナーになるのだったら大学に行かせてやるという事で、図案科に籍を置きながら絵画科の方に画題を提出していたりしていました。
教授がバウハウスの教育方針を取り入れていて、丸、三角をどう組み合わせれば平面上の力関係を不安定にできるとか、安定した平面構成にできるかとか演習をやって面白いと思いました。
電通、博報堂は青田刈りに来ていて、博報堂の実習生としていくことになり、製薬会社のポスターをいきなり描きました。
デザイン会社の上役から「これは君の宣伝にはなるが、薬の宣伝にはならない」と怒られてしまいました。
出版関係に行きなさいと教授から勧められて出版関係のところに行きました。
民話の絵を描いて「ふるやのもり」ができました。
1963、4年に仕事をもらって1964年の夏に仕上げました。
1964年の12月には本が出ました。
瀬川さんは本当に僕の「ふるやのもり」には吃驚してしまったんですが、一般にはとんでもなくひどい扱いをされました。
芸術として描いていて絵本として描いていないという事で、美しい花園を芸術家の泥靴で踏みにじることだけはやめてほしいというのが最後の言葉でした。
そんなことをやったものだから今色々面白い人が出てきて、ミロコマチコさん、きくちちきさん、あべ弘士さんとか次々に出てきました。
「ふるやのもり」を出したために全く仕事が来なくなりました。
ついに栄養失調になってしまいました。
むかごをフライパンで炒めて食べていましたが、偏っていたので中枢神経失調症になってしまって、身体が引きつって体中が痛くなって汗がもの凄く出ました。
就職しなかったので父に頼ることはできませんでした。
大家さんに相談したらただで見てくれる医師を紹介してくれました。
生活保護の申請書を持って国立(くにたち)の町役場いいって、「ふるやのもり」の本を見せて「これでいづれ立ち直れれるから今年1年でいいから生活保護を出してくれ」と言ったら、「こんな汚らしい本は何だ、こんな本を書いてお前はやって行けると思うのか」、と本を床に投げ捨てて、最後は殴り合いみたいな喧嘩になってしまいました。
追い出されて帰ってきて、引きつる感覚が短くなってきて、着替えるものもなくそのうちに死臭を感じて、死ぬんだなあという気持ちがしてきて、涙が出てきました。
朝戸を叩く音がして、朦朧としたなかで、美しい女性がきて、天国から迎えに来たのかなあと思いました。
下級生の女性でした。
アンパンとチーズを買ってきてくれてよみがえることができました。
その女性が今の妻です。