塔和子さんは昭和4年(1929年)愛媛県に生まれました。
10代でハンセン病を発生し13歳から療養所での暮らしを余儀なくされました。
しかし塔和子さんは詩を書くことで生きることの意味を問い続けました。
平成25年(2013年)8月亡くなられました。(83歳)
沢知恵さんは塔和子さんの詩に魅せられ、曲をつけてコンサートで歌い続けています。
塔和子さんと出会ったのは昭和46年、1971年(半世紀前)の夏でした。
生後6か月の赤ちゃんでした。
父がキリスト教の牧師で学生時代にひと夏、瀬戸内海にあるハンセン病療養所の大島青松園で学生研修、ボランティアでお世話になって、その後結婚して生まれた私を大島青松園に見せたいと思って連れて行かれました。
当時ハンセン病療養所に赤ちゃんを連れて行くということは考えられなくて、ハンセン病療養所の人たちは鮮烈に覚えていたそうです。
薬で治って1960年には隔離の必要がなかったが、強制隔離が続いて、全員が治って10年以上たって私が行きましたが、周りはお前はいいけど赤ちゃんだけは連れて行かないように随分反対されたが、連れていってくれました。
大島青松園には塔和子さんがいたんです。
高校生の時に父ががんで亡くなって20年ぶりに大島青松園に行きました。
皆さんが桟橋で「知恵ちゃんよく来たね」と言って大粒の涙で私を迎えに来てくれまして、私も泣いてしまいました。
それから大島青松園が故郷になり、年に何回も通うようになりました。
青松園の月刊の機関紙があり塔和子さんの詩に大変感銘を受けていました。
塔和子さんに会いたいと言ったら、父とは親しかったからあってくれると言って導いてくれました。
病棟に行って「塔和子さん」と声を掛けたら「あー沢先生のお嬢さんね」」と言って満面の笑みで迎えてくれました。
青松園に行くと必ず塔和子さんの部屋に行って、詩の話、クリエートすることについて熱く語ってくださいました。
全国に13か所の国立療養所がありますが、唯一離島にあるのが大島療養所です。
年々亡くなってゆく人が出てきて、何かせめて恩返しができないかと思って、コンサートをやらせてくださいと言ったのが2001年、国と和解した年でもありました。
以来20年間毎年コンサートをしています。
塔和子さんから詩集十数冊頂きました。
金子みすゞさんとかの詩に曲を付けて歌ったりしていたので、私の詩にも曲をつけて歌ってほしいという思いで思い、詩集をくださったんじゃないかと思いました。
塔和子さんの詩(約1000編)を私の中に取り込むのに8年の歳月が必要でした。
声をだして全部読むしかないと思って3か月かけて読みました。
*「胸の泉に」 作曲、歌 沢知恵 作詞 塔和子
かかわらなければ
この愛しさを知るすべはなかった
かかわらなければ かかわらなければ
この親しさは湧かなかった
かかわらなければ かかわらなければ
このおおらかな依存の安らいは得られなかった
かかわらなければ
この甘い思いや
さびしい思いも知らなかった
人は関わることからさまざまな思いを知る
子は親とかかわり
親は子と関わることによって
恋も友情も
かかわることから始まって
かかわったが故に起こる
幸や不幸を
積み重ねて大きくなり
繰り返すことで磨かれ
そして人は
人の間で思いを削り思いをふくらませ
生をつづる
ああ かかわらなければ
何億の人がいようとも
関わらなければ路傍の人
かかわらなければ かかわらなければ
私の胸の泉にも
枯れ葉一枚も
落としてはくれない
かかわらなければ かかわらなければ かかわらなければ かかわらなければ
あー かかわらなければ かかわらなければ かかわらなければ
あー かかわらなければ かかわらなければ かかわらなければ
この歌は私の人生の応援歌なりました。
関わりを断たれたハンセン病療養所で70年間生きた詩人が発したという事は、私にとっては衝撃的な事でした。
黒人音楽が大好きでブルースを歌ってみたいと思っていました。
なかにはピアノを弾きながら朗読しているものもあります。
詩の世界で最も権威があると言われている高見順賞を受賞して、本質から湧く言葉であるという評価を得ています。「選ぶ」という詩 塔和子
選ぶことは捨てることだ
百から十を
十から一を
選んで九十九を捨てる
この人を選んであの人を捨てる
この道を選んであの道を捨てる
ひとつの宝石
一枚の着物
一個の化粧品
選ぶことは贅沢なことだ
選ぶことは厳しいことだ苛酷なことだ
だが
人は選ばねばならない
どんなに多くの物に囲まれていようとも
自分のものにするとき
たったひとつを選ぶことを強いられ
同時に九十九を捨てることを強いられ
選んだ重さを負わされる孤独な存在だ
だか選ぶことは愛することだ
捨てた九十九より選んだ一が重くなるほど
選ぶことは捨てることだ
選んだ一のために九十九のさびしいうめき声をきくことだ
九十九のさびしいうめきを振りすてて
一を選んだ勇者はだれ
あなただ
私だ
この世に参加している
人間だ
晩年はパーキンソン病を患いましたが、病室に入ると塔和子さんの周りにはオーラがありました。
塔和子さんの詩には樹をテーマにしたものが沢山あります。
塔和子さん自身が樹のように凛として生きているイメージの方でおしゃれの好きな方でした。
思いを言葉にすることによって希望を紡いで生きてきたし、悲しみから生まれる喜びの歌を紡いで自分自身が命を繋いだ方だと思います。
2013年の夏に最後にお会いしました。(亡くなる数日前)
塔和子さんは歌「故郷」が好きで私は「故郷」を歌いかけました。
亡くなった後、ご兄弟は自分たちの家族にハンセン病回復者がいるということを長い間公にはしなかったが、ご兄弟が姉さんを故郷に迎えようと決心して、先祖代々のお墓に本名である井土 ヤツ子という名前を彫って、分骨をされました。
これは大変なことでハンセン病回復者のほとんどは故郷のお墓に帰ることはなかった。
6年前に塔和子さんが夢に出てきて、塔和子さんに導かれて大島青松園に近い岡山に引っ越しました。
コンサート以外でも大島青松園には月に2,3回通っています。
3月は東日本大震災で被災した人たちを応援するコンサートも予定しています。
東北にはずーっと通い続けています。
福島県は台風19号でも大きな被害を受けました。
少年院、児童養護施設でのコンサート活動も継続してやっています。
ともえ基金を設けてボランティアコンサートの経費の面で支えてくださいと言う事でやっています。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に憧れていて、西日本豪雨の後に、通う車の中でフレーズが出てきて、視界が涙で滲んできて、歌にしました。
塔和子さんに続く第二の人生の応援歌になりました。
*「雨ニモマケズ」 作曲、歌 沢知恵 詩 宮沢賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ