2020年2月23日日曜日

竹宇治(田中)聰子(ローマオリピック水泳銅メダリスト) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

竹宇治(田中)聰子(ローマオリピック水泳銅メダリスト) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
熊本県で育ち、筑紫女学園高等学校3年生の時に、ローマオリンピック競泳女子100m背泳ぎで銅メダルを獲得、ベルリン大会の前畑秀子選手以来24年ぶり、二人目の競泳女子のメダリストになりました。
八幡製鉄時代22歳の時の東京オリンピックでは同じ種目で4位でした。
3人のお子さんを育て上げた後、70代の半ばの現在も週4回の水泳教室を、そして長女の病気をきっかけに始めた喘息の子どもの水泳指導を40年続いているそうです。

娘が3人なので孫が8人います。
一番上が20歳になります。
月、火、木、金と週4回水泳教室に通っています。
大人の教室を2回、子どもの喘息児の教室を2回やっています。
指導するときにはプールに入り大声を出しています。
昭和35年ローマオリンピック。
前年17歳の時、日本選手権で女子200m背泳ぎで世界新記録を出しました。
ローマオリンピックでは女子は振るわず、100m背泳ぎで一人だけ背泳ぎの決勝に残る。
1分11秒5日本新記録で予選で3番目でいた。
私は3コースで4コースにはアメリカのリン・ バークで100mの世界記録保持者、2コースはイギリスのスチュワードでした。
スタート時にやや遅れる。
50mのターンでアメリカのリン・ バークがトップ、続いてイギリスのスチュワード、南アフリカのラムエル?、田中4位でターン。
80mを越えてピッチが上がってきて3位争いとなる。
3位に田中、南アフリカのラムエル?、フランスのピアセンチ?が並んでゴール。
着順がなかなか発表されない。
駄目だと思って更衣室に入っていたらコーチが出てきて「早く出てこい」と言われて出ていったら3位になっていました。
3位は1分11秒4で同タイムでタッチの差で銅メダル獲得となる。

当時は目視で着順を決めていました。
昭和39年の東京オリンピックの時には22歳で八幡製鉄に就職していました。
私のほかに木原 光知子さんが出場しました。
私は予選6位で決勝進出を決まましたが、木原選手はいつもよりも1秒遅れてしまって予選落ちしてしまいました。
前評判は16歳と17歳のアメリカとフランスの3人でした。
アメリカは世界記録保持者のデュンケル、予選2番目のファーガソン、フランスのキャロンは予選1位のオリンピック記録を出している。
4コースがキャロン、3コースがデュンケル、5コースがファーガソン、7コースが田中でした。
50mターンでデュンケルがわずかにリード、後はほぼ同時、その後ファーガソンがトップに、2位にキャロン、3位にデュンケル、田中が追いかけるが4位でゴール。
1分8秒6の日本新記録出しながら4位となってしまった。
レース後の記者会見で「レースに出るのはこれで辞めます」、と言いました。
「頑張れ」と言われれば言われるほど重圧となり言ってはほしくはないと思っていました。

切磋琢磨しながら練習をしないと結果がなかなか出にくいので、チームで練習をすると負けてはいられないという事で、男性の平泳ぎ選手と一緒に練習するんです。
山中さんは早稲田大学時代に一日に40kmぐらい泳いだといっていました。
私たちは会社に勤めていたので朝8時から4時までは仕事をしなければいけないので、5時から練習を始めて8,9時までの練習なのでそれほど距離は泳げませんでした。
いかに効率よく練習するかが大事でした。
屋外プールだったので冬は陸上でのトレーニングでした。

子どもの頃、3月末ぐらいから田んぼのために灌漑用水をため込んだ手作りのプールがあり、緩やかに流れていて、そこで毎日のように泳いでいました。
中学の水泳部に入って、1年の8月に熊本大会があり50m、100mの背泳ぎで優勝しました。
2年で50m、100mで日本新記録を出しました。
昭和33年に筑紫女学園高等学校に入学しました。
高校1年の5月にアジア大会があって100m背泳ぎで1分15秒3の日本新記録を出して2位以下を10mぐらい離して優勝。
足首が柔らかいという事は水を上手に扱えるので、足の柔らかさは利点になりました。
負けたくないという事は根底のどこかにあると思います。
東京オリンピックの時の精神状態は普通ではなくて、本当に押しつぶされそうでした。
17歳で初めて出した世界記録2分37秒1、18歳の時にローマオリンピック代表選考で出した2分33秒3の世界新記録は200mでした。
ローマ、東京大会共に200mはなくて100mでの出場でした。
メキシコから200mが採用されました。

昭和41年アジア大会で100m背泳ぎで優勝して3連覇。
翌年バレーボールの監督だった竹宇治さんと結婚、3人の子どもを育てる。
長女の和佳子が喘息になったことをきっかけに水泳教室の始めることになる。
医師から喘息は泳いだ方がよくなると言われて、喘息児を専門に水泳教室をやらないかと言われました。
先生も水着も来て喘息が起きても大丈夫なように医師とタッグを組んでスタートしました。
この方法が全国に広まっていきました。
気管支に埃などがあると気管支が異常反応して痰がいっぱい詰まるので 空気が通りにくくなるが水を飲むと良い。
泳ぐとどうしても水を飲んでしまうし、プールサイドは埃がないので絶好の場所になる訳です。
昭和52年から始めて、東京にも転勤となり江戸川区でも喘息児に対しての水泳教室を始めました。
マスターズの75歳代に出て世界記録を出しました。
みなさんと一緒に楽しむのが一番と思っています。
水泳界はいま期待の星が出てきており、そっと温かい目で見つめていきたいと思います。