2020年2月13日木曜日

横尾忠則(美術家)            ・「隠居してますます」(1)

横尾忠則(美術家)            ・「隠居してますます」(1)
横尾さんは兵庫県西脇市の出身83歳、ポスターや絵画で世界中に作品のファンを持ち2001年に紫綬褒章受章、2011年には旭日小綬章受章されています。
横尾さんは70歳の古希を過ぎた2007年の春、隠居宣言をしました。
以来好きな絵を描くこと中心に悠々自適な生活を送られています。
隠居生活について伺いました。

同時に複数の絵を描くのでどれも描きかけという感じに見えます。
油絵の具が乾く時間があるのでそうしています。
神戸市横尾忠則現代美術館で2月1日から兵庫県立横尾救急病院展が開かれています。
病気をしたり入院したり良くするのでそういった作品があり、それを展示しようという事になり、美術館そのものを病院にさせてしまったらどだろうという事になり、病院の器具なども運んでそういった雰囲気を作ったわけです。
ポスターはかなり前に描いたものです。
2007年「思い出劇場」という作品、石和温泉に旅行した時に救急車で病院に運ばれて、その時の状況を描いた訳です。
バルコニーで市谷で三島由紀夫が自決したものと一体化したものです。
ストリップ劇場の近くで棺桶の上でギターを弾いているのが深沢史郎さん(昭和時代後期の版画家)です。

「病気の御利益」という本を出すことになりました。
病気することによって以前、以降に考え方とか生き方の大きな変化が与えられるし、病気中に考えなかったような問題,テーマを考えたりという事では一種の休息になる訳で、その後の生き方に対して御利益があるのでないかと、こういうタイトルを付けました。
足の動脈血栓になったときには足が切断しないと治らないのではないかという様なこともありましたが、切断しなくて済みました。
骨折も多いです。
睡眠時間はトータルで6,7時間です、10時頃に寝て、朝7,8時に起きますが、夜中に1,2度、目を覚まします。
歩くのは嫌いでつい自転車に乗ります。
外食はお昼だけです。
単行本より週刊誌はよく読みます。
難聴なので週刊誌はTVの替わりです。
スキャンダルは因果応報で、仏教的にみると面白いんです。

隠居宣言後13年がたちますが、一日アトリエでぼんやりしている時間が一ヶ月に半分ぐらいありますが、重要な時間でだと思っています。
70代の時に体調を崩してしまい、身体と気持ちが乖離していってしまって、それを一つにしないといけないと思いまして、「隠居宣言」という本を書きました。
隠居しなさいという事ではなくて、自分自身に語った言葉、内容です。
好きなことはするけれども嫌なことはなるべくしないという事を、その本で自分自身で宣言しました。
自分で勝手に作ったことにかかわっている間は忙しいが苦痛に感じる事はないです。
安藤広重は34歳で隠居している、伊藤若冲も早い時期に隠居しています。
自分の気に入ったしたいことだけをやるという事が隠居だと解したわけです。

生まれは兵庫県西脇市ですが、あまり帰らないです。
10代の終わりまで郷里にいましたが、以降は郷里にはあまり帰りませんでした。
西脇市には僕のモチーフになっているY字路が結構ありますからそれを絵にしたりします。
亡くなった同級生たちを故郷の絵の中に描き入れたりします。
歳をとればとるほど郷里で経験したり体験したりする記憶が、今後の絵の中に出てくるんではないかと思います。
子どものころから画家になろうとは思わなかったです。
手紙を書くことが好きで、英語を学んでエリザベス・テーラーに手紙を出したら、手紙が来て、切手を集めているという事も書いたら、彼女のところに来る世界中のファンレターの切手を切り取って送ってくれたり、ブロマイドに僕の名前入りのサインをしてくれたりしてくれました、凄く優しい人です。
他にもクラーク・ゲーブルタイロン・パワーエスター・ウィリアムズとかの人からブロマイドを送ってもらったりしました。
エリザベス・テーラーから手紙をもらったことが嬉しくて、学校の郵便友の会を通して、郵政局の郵便友の会の新聞に手紙の文面、写真を送ったら新聞に掲載されて、僕の思い出の記録です。

絵は物心ついたころから描いていたようです。
色んな人の挿絵を模写したり、ブロマイドを模写したりしていましたが、今は紛失してしまいました。
街の商店街の包装紙などを頼まれてバイトのようにして描いていたら、グラフィックデザイナーになって行ってしまいました。
独学でスタートしたのでよく知らないままグラフィックデザイナーになってしまった。
45歳過ぎて絵を絵を描いてみようと思って絵の方に進みましたが、不思議な縁だと思います。
人生は予測していないことが次から次に起こってきて、それにあまり抵抗しないで受け入れてやってきたような気がします。
養子で横尾家に来て、自分で主体的に事を起こすよりも身を任せた方がいいという様なことに10代で決定してしまったような気がします。
40代になってもあまり変わらない気がしました。

新聞社にカットを送っていたが、大阪の広告会社の人と知り合いになって、広告会社に行くことになり、会社が東京に移転して東京に行くことになりました。
運命の成り行きの面白さを経験して、それに任せればいいのではないかと思ってそれに任せてきたような気がします。
結婚してなかなか自分の思い通りにはならなくて、大変でしたが。
その中でも新しい発見がありました、自分一人では生きていけないという事です。