2020年2月18日火曜日

安積登利夫(オーダーメード紳士服店経営) ・「テーラー一筋 73年」

安積登利夫(オーダーメード紳士服店経営) ・「テーラー一筋 73年」
東京都洋服商工協同組合によると昭和40年代には3000店以上あった東京都内のテーラー加盟店が現在はおよそ180店と激減しています。
後継者不足や量販店の台頭などが主な原因ですが、このままではテーラーが消えてしまうとオーダーメードする良さを知ってもらうため、次世代を担うテーラーの育成に立ち上がった人がいます。
東京台東区で店を営む安積さん(86歳)、13歳から洋服店に住み込みで働き、14年近い厳しい修行に耐えて独立、当時の広岡達郎選手との縁で読売巨人軍の御用達テーラーとなり、現在は店を息子さんに任せ。2017年に自社ビルの中に東京洋服アカデミーを開校し、自らアカデミー長として日々後進の指導と育成に情熱を注いでいます。
73年に及ぶご自身のテーラー人生を伺いました。

出身は福島県の福島市です。
2つの時に両親に満州の大連に連れていかれて4歳の時に母親が亡くなり、昭和20年終戦を迎えて、昭和21年に父親が天国に行ってしまいました。
子どもばかりでどうして生きていこうかとしているときに、浅草橋近くの久喜テーラーで小僧募集が貼ってありました。
そこに飛び込んで10年間辛抱できるかと言われて住み込みで働くようになりました。
三食付きで初任給100円(現在で2000円ぐらいか)でした。
最初掃除、洗濯など徹底的にやりました。
100円の中から90円は貯金をしました。
厳しく物差しでよく叩かれました。
有名店で技術もよかったです。
厳しいので半年から3年程度で辞めていく人がいました。
13年半働き、お金も結構残すことができました。
26歳で結婚してそれを機会に独立しました。
夏は殆ど仕事が無くて、洋服も長く着ているいろいろ直すことが必要になるので、カバンの中に修理の道具を入れてお客さんに所に行けば喜ばれると思って、直してあげたりして喜ばれました。
皴にならない保管法なども教えたりして感謝されました。

巨人軍のショートの広岡さんが近くに住んでいたので広岡さんとの出会いがあり、奥さんにアイロンがけを無料でしますと言って、アフターサービスから近づいていきました。
話す機会ができるようになり、どうもいい洋服仕立てが無いという事だったので、気に入らなかったらただでいいという事で洋服の仕立てをお願いしますと言いました。
寸法を測ったがが凄くいかり肩だったので工夫して作ったら喜ばれました。
次には礼服を作って欲しいと言いう事になりました。
段々親戚とか近所の人なども紹介されました。
広岡さんの紹介で山崎投手の仕立てをすることになり、巨人軍の多摩川の寮に行きました。
ワイシャツも作ってほしいという事になり、周りからも褒められて行って、口コミで広がっていきました。
王選手からも作ってほしいという事で作ってあげたら、今までのものと全然レベルが違うという事でした。
王家一族全部を作ることになりました。
王さんが結婚することになりモーニングとタキシードを作ってほしいと依頼されました。
宣伝になるためただで作るからとデパートなどから話があったそうですが、全部断ってお金を出しても安積のところで作ると言ったそうです。
それを聞いた時には本当にうれしかったです。
結婚式には招待状が来て、着付けも行いました。

日米野球でドジャースが来た時には、牧野茂さんが紹介してくれて、いきなり10人以上が来て一か月以内に作りました。
カージナルスも来て対応しましたが、一般のお客さんからクレームがついて、数年に一度来るお客に一ヶ月で作るのに対して、2,3か月もかかってしまう我々とどっちが大切なんだと言われてしまいました。
一か月間は大リーグにかかってしまっていたので、これからはあまりやらないようにしようと思いました。

43年にはヨーロッパに視察に行くことになりました。
どうしてもロンドンのサヴィル・ロウ(Savile Row オーダーメイドの名門高級紳士服店が集中していることで有名)に行きたくて、行って洋服と工場を見せていただきたいと言ったら工場は駄目だと言われました。
マネージャーがあなたが着ている洋服は誰が縫ったんだと言われて、これはうちの見習いが縫ったんだとその時に嘘をつきました。
洋服を脱げという事でみんなが集まって見に来て、出来栄えの良さに吃驚して工場を見に行くことがOKとなりました。
洋服の中で難しいのが肩入れ、襟つけ、袖つけなんですが、そこが急所でそこだけをやれと洋服を出されたんです。
そこは私は技術者にその急所だけは徹底的に教えていたので、これはちょうどいいと思って飛びつきましたが、アイロンが大きくて大変だったが、それを見た連中があんたみたいな若い仕事ができる人は初めてだと言われました。(33歳だった。)
吃驚したのは日本の宮内庁の御用達とか看板があり、吉田茂さんの型紙も見せてもらってここに飛び込んできて良かったと思いました。
1週間しかいられなかったが、そこに通って急所の部分だけやらせてもらいました。

一番繁栄していた時期は3000軒以上ありましたが、段々店が少なくなって行ったのは本物を着た味を知らなくなってゆくわけです。
本物のお寿司屋さんではなく回転寿司で食べるようになったのとおなじですね、本物を食べると吃驚すると思う。
東京洋服アカデミーを3年前に立ち上げました。
東京の銀座にある有名な洋服屋の職人を38年教えていた工場長が定年退職していた廣川さんが是非私にやらせてくださいと言って、裁断は伊丹先生がいてその先生も参加してくれました。
週3回10時から5時まで教えることになりました。
お客さんの気に入る洋服を作ってあげるとお客さんは自然と宣伝してくれます。
後継者を養成していきたい、こんなにやりがいのある仕事はないですね。