1950年 父親は韓国人 母親は日本人(母)と韓国人(父)との間に生まれる
いじめや差別の中で荒れた少年時代を経て神戸、岩国のアメリカ軍キャンプで働いていた時
ジャズやブルースと出会いました
21歳の時にアメリカに渡り、帰国した後、渋谷で弾き語りを始めました
その後その評判を聞いた内田裕也氏に見いだされ、29歳でメジャーデビューします
中でもチョンハーの道と言う歌は民放報道番組のエンドテーマになり レコード大賞のアルバム大賞を受賞しました
新井さんはこの10年はライブ活動が中心でファンの紹介で始めたお寺でのライブは毎年年間10回になります
8年ぶりのアルバム歌魂(うただま)を発表 歌はオリジナルばかりで11曲 東北への思い、還暦を迎えた思い、お母さんへの追憶等 62歳のシンガーの率直な思いが、このアルバムには込められています 『清河(チョンハー)への道~48番』
7歳の時に小学校に入学 夢を言いなさいと先生から言われて、私はすかさず歌手ですと答えた 高田浩吉 春日八郎とかの歌を歌っていた
子供のころは日本人だと思っていた
母親は廃品回収業をやっていた
盗品の売買に係わり その人が捕まり、1年間刑務所に行った
その時に新聞に載り、母親が韓国人の血を引いていることを知る
今まで友達だったのが付き合わなくなったし、先生も対応が違ってきた
そこら辺りから人間が暗くなってきた
石を投げられてり、畑に連れていかれて5,6人から暴力を働かれた
俺もやってもいいかなと思って、1対1でやろうと言って 一人一人とやって、やっつけた
誰も文句を言うような人はいなくなって、中学2年で番長になって3年まで番長だった
しかし下の者には暴力は振るわなかった(自分がやられた事があるので)
2年の時が一番悪かった
3年になったときに他の学校からも来て学校同士のけんかをしたりしていたが、馬鹿らしくなってこのまま行ったら変な世界に入ってしまうような、気がして断ち切ろうと3年の2学期に辞めて博多から神戸に行った(本当は東京に行きたかったが)
3000円を手にして家出をした
仕事を探そうと歩きまわった 喫茶店の住み込みを求めたが、キッチン募集が有った
家出したんだろうと見抜かれた
店主も北海道から家出してきたからお前の気持ち判ると 皿洗いと言う事で雇ってくれた
(1964年の時)
半年働いて一度博多に帰る 皆が子供っぽく見えた
もう博多には帰れないと思った
姉が岩国にいたので、岩国に行く事にした(この頃からアメリカには行きたいと思っていた)
基地のゲートの前の外人バーで働いた(ベトネム戦争のまっ盛りだった)
英語も少しずつ覚える
シャワーのように当時聞いた音楽が今のオリジナルの中にポツンポツンと入っている
パスポートをつくってくれなかった (日本に住んでいるけれども韓国籍なので)
領事館の人と喧嘩をして、2~3年 行かれないので鬱屈していた
21歳の時に パスポートを取る事が出来た
姉がアメリカの兵隊と結婚してロスにいた
姉の処に行くと言う理由で初めてパスポートを作ってくれた
1回目はロスに行って 姉のところにちょっと寄ってからサンフランシスコにヒッチハイクでいった
期限ぎりぎりで一旦帰国する
又日本でお金を貯めてアメリカに24歳で行き(ロス)車を購入して、ニューヨークに行く、1年間働きながら ギターを購入して、音楽を聴きながら過ごす
ギターを携えて日本に帰国する こんどこそ歌手になろうと思った
ギターは自分で覚えた 25歳 で東京に行く
住む処、仕事を先ず探す 六本木クレージーホースに行く
英語が喋れるのでこれが役に立った 店長も喜んでくれた
会長が女性で従業員の面接をすることになる 次の店長はあなただねと言われた
やばいと思った 歌手になるために来たので3か月で辞める
渋谷丸山町に小さなアパートを借りて弾き語りの仕事を探した
ようやく歌の道に進むことになる
渋谷の道玄坂で弾き語りを始めて30歳で芽が出なかったら、家族を連れてアメリカに行こうと思っていたら、3年目に(29歳)内田裕也さんが歌を聴きに来た
九州在住で仕事をすることになる 帰って2年後に母親が亡くなった
新たに家族を連れて東京に戻った 昼間はとび職 夜は歌の世界(弾き語り)で仕事をする
夜はライブだけにしようとした(自分で営業した)
チョンハー 父親が生れた土地の名前
日本の国籍を取ることにしたが、父親の生れた土地に行ってみたいと思った(36歳)
チョンハーに一人で行った 歌にしようと思って帰ってきた
その4年後にこの歌を作った(40歳) 「チョンハーへの道」
父親の故郷の村に行ってきて、自信がついた 俺のルーツはここに有るのか
歌手活動の中心はライブ 4人でこなしている
お寺でのライブ 年に10回程度こなす
80~100人ぐらいいないと成り立たないので、場所はどこでもいいと人さえ集まればいいと言った
お寺でも良いかと言われたので良いと答えた
お寺での繋がりも有り紹介されていろいろなお寺でやる様になった
大震災を見た時の光景をみて歌を作った
「歌魂」 60歳を過ぎてようやく歌を歌うことはどういう事なのか 歌手と言うのはどういう使命なのか、日本と言う国の中で自分は歌手として どんな歌を歌って、告げてゆくべきか と言うのが凄く自分で自分の問いかけになりましたから、僕はやっぱり歌手と言うのは歌で人に与えられるもの それが元気であったり、癒しであったり 人間て泣きたい人もいる 思いっきり 音楽を聴いて泣いて貰って、スカッとした気持ちで又生きて行こうよと 一回吐き出したらいい
元気にもなってほしい
生きるために役に立つ歌を作っていき、 歌える限り自分の声で歌って行きたい
年を取ると声が衰えるが、衰えたなりに説得力で歌いたい