2012年12月22日土曜日

黄地耕造(鋳造会社社長81歳)    ・祈りの音を永遠に

黄地耕造(鋳造会社社長81歳)        祈りの音を永遠に    
滋賀県東近江市 (かつての長村)
60年に渡って全国各地の寺院の梵鐘を作り続けてきて,手掛けた梵鐘は3500に登ります 
奈良薬師寺を始め、国の内外の多くの寺院に釣鐘を納め,仏像、燈籠等、お寺や神社に納める鋳造品の製造にも携わっています   
鐘の音で人々に安らぎを与えたいとおっしゃってています  

音色 ちょっと聞いただけはガーンと言ったようですが、打撃音、高音、余韻の三拍子必要と言われている
梵と言うようなことを連想する様な音  高音 は長い方がいいと言われている 
遠くに響く音  それが一旦下がってから余韻がある
梵鐘はみ仏のみぎょうえ?を出す宝物であるという考えから、形だけ良ければいいと言うのではなしに、作るものも突いてくれる方も 温床に対する考え方を,大事にして頂いて、作るものと、突いて頂く方が一体となって、将来の皆さんの心休めて貰えるような梵鐘になる様にと心がけて作っています
 
700年前から梵鐘作りを生業として、技術が伝承されてきた  昔は出掛けて行ってお寺で作る 
大八車に道具を積んで出かけていって庭先で作っていた
戦後にも2か所 出ふきといっていがたを作って行ったことがある  
銅と錫の比率 銅鍋の古いもの、銅の上に錫を塗り込んで映す鏡等を集めて これは銅分が 多いのでとか、集まったい物の元になる金属をみて、調整していた  
現在は銅も錫も純な金属を入手できるので、いろいろ調整できる

土も大事 何度も何度も焼いて、梵鐘をつくり つくったあとも粉にしてふるいにかけて、粒度を分類するとかして、何度も使う方が癖の無い土になる
皆一つ一つ同じように自分で出来ることの最高の技術を駆使して作ったと満足はしているが、今後次の方の梵鐘に心を込めて突いて頂きたいと思いがある
火入れ式 鋳型の流し込む時 は い込む前日から自然とそういう気持ちになり、お願いで来るのは最後は仏さんのお加護だけと言う事になる
昭和11年 周囲のお寺には鐘があるが、そのお寺には無くて、一生かかってでも作ってくれと頼み、遺言で亡くなった 
コツコツ働いたお金で作ってほしいと依頼されて 作ったことがある  (父親から聞いた話)  
そこに出掛けて行って梵鐘を見学した
 
父親が苦労しているのをみているので、鋳物師には成ろうとは思わなかった  
中学の時には就職先を決めていた 
最初は特にどうと言うことはなかったが、母は7歳の時に亡くなって お婆さんに育てられて お婆さんは信心深く 段々家業を継ぐ気持ちには成っていった 
奈良の薬師寺の梵鐘を作らしていただいたのが、現在まで梵鐘をつくることになるきっかけだった
高田好胤さんは判り易く説明してくれた 
段々頂いた本等を頂いたものをみているうちに心がそっちの方に向いてきて、お写経をしたりした
金堂が新しくなり、梵鐘が割れていて 音がひどかったので、新しくすることになる
人間らしさをちょっとでも教えていただいたので、心、心が一番 心がすさんではいけないと 教えられた
気持ちの持ち方が 高田好胤さんに会ったとき以降では違ってきた  
高田好胤さんとインドにも行くことになる  
南方で亡くなった戦没者の慰霊のために、小さな鐘を持って行って、叩いて み霊にお礼にきましたと祈った

日本で一番清らかな音は梵鐘だと言われた(高田好胤)  
薬師寺 三重の塔 法要の起工式で 塔楼を分解した 
誰でも組み立てられるように順番を丁寧に書いて分解した  
あと5年経ったら組み立てするが薬師如来の御念力があれば生かされると思うので、十分節制して、もうちょっと頑張っていきたいと思っている  
その日その日一日一日を大切に過ごさせて頂きたいと思っています  
東本願寺 梵鐘 もう二年になるが平成20年末に 750回忌 を記念につくりかえると言う事で4500kgの記念の梵鐘をつくった

50年前に700回忌に、御縁があり、父がハスの花をつくり替えた  
前の梵鐘は慶長9年に大阪の人がつくった
長村いもじ 第3代目佐平の名を梵鐘に刻み込む 長村いもじ(長村の鋳物師の意味)   
岩手県 大槌町 江岸寺 本堂 鐘楼堂も津波では助かったがその後の火災で、燃えてしまい 梵鐘の上の方がとけてしまった      住職も行方不明  
来年3月11日が3回忌と言う事でつくることになる
(現地の人の梵鐘の音を聞きたいと要望があり)
除夜の鐘 で年が締めくくる   
大晦日が一番心の一段落と言いますか、又来年も正月早々から皆さんの癒しのお手伝いが出来たら有り難い事と思っています