藤川幸之助(詩人50歳) 認知症と向き合う(1)
24年間認知症だった母親を 父親が亡くなった後の12年間一人で介護されました
認知症の母が人間らしさを引きだしてくれた、という詩人の藤川さんに聞きました
1962年、熊本県生まれ。小学校の教師を経て、詩作・文筆活動に専念 認知症の母親に寄り添いながら、命や認知症を題材に作品をつくり続ける
ことし9月に84歳で母親が亡くなる 60歳の頃に若年性認知症になる
初期のころは父が介護 それから私が引き継いだ
熊本が実家 長崎の平戸で教員を私はしていた 5時間掛る
1ヵ月から2カ月に一回行っていたが、父が亡くなる頃は1週間に1回に成り長崎に連れてきた
最初 私は介護する気はなかったが、私は次男なので 父親から遺書のような感じで言われたので、仕方なくやる様になった
自分を責めた 自分の家族の事を考えると 母を家に入れるわけにもいかず、
施設に入れた(姥捨て山みたいなイメージが有った)
母を捨てた冷たい息子だと回りから見られている様な気がして 自分を責めた
私が帰ろうと立ち上がると 母もたちあがって 私が玄関まで出てゆくと 一緒に付いてきて
じゃあ帰るからと言うと母が私の裾をぐっと握るわけですよ
その時に判っていたんですよ 優しく離したら 又裾を握る
怒りながら泣きだした そうしたら裾を離した 車に乗って帰るすがら何で優しく出来ないのかなあと思った
自分ばっかり楽なことをしているのかなあと 授業をしながら泣いてしまった(子供達が2~3人が来てくれて 励ましてくれた) 新たに泣いてしまった
「扉」
「認知症の母を老人ホームにいれた。
認知症の老人たちの中で静かに座って私を見つめる母が 涙の向こう側にぼんやり見えた。
私が帰ろうとすると 何も分かるはずも無い母が私の手をぎゅっとつかんだ。
そしてどこまでもどこまでも私の後をついてきた。
*
私がホームから帰ってしまうと
私が出ていった重い扉の前に 母はぴったりとくっついて
ずっとその扉を見つめているんだと聞いた。
それでも
母を老人ホームに入れたまま 私は帰る。
母にとっては重い重い扉を
私はひょいっと開けて また今日も帰る。」
これは 長崎に連れて帰ろうと思った大きなきっかけです
2時間 その扉の前に立っていたと施設の人に聞いた
母は何にもわからないと思っていたが、会話は全くなくて (その話を聞いて)
むき出しの母の心を見るようだった
家に連れて来てからは 色んな事が有った 徘徊 ふっといなくなる
1日中探したがいないときが有った コンテナの陰にいた
何でうろうろするのかと思った
自分のイメージ通り何故しないのかとイライラしていたが 今ではそれが判る
あれは父が亡くなったのが判って 一生懸命に探していた 母には母の理屈がある
母には母の頭の世界が有って それを判ろうとしなかった あの時は
でも介護中の真っただ中では そういうことは全く考えられない
余裕はありません 誰も 誰もないと思いますよ
母の事を判るための 入口にしたり、きっかけになればよかったんですね
大分経ってから判った イライラして辞めさせることだけを考えた
おむつの交換 車で外に連れて行った時に うんこの臭いがしてきて パーキングに止まって トイレに行くのに 男子、か女子かで悩んだし
替える時にうんこに触ってしまって 私の肩に触って仕舞い 私の肩に付いてしまい
怒って床にうんこを投げつけた イライラしたが やらざるを得なかった
戻ってきて 車に座ると母は眠ってしまい なんでおれはこんなことを事をしなければいけないのかと 涙が出た 泣いてばっかりいた
でもこんな大変なことを父はひとりでやってきたんだと 判って しっかりやらなければいけないと 父の事も判った
母がおむつを変える時に 母は あっ あっ あっと笑っていた
何で笑っているんだろうと思っていたが これも後で判った
あれは恥ずかしかったんですよ 息子におむつを替えられるなんて、恥ずかしがりますよ
イライラしていました 朝起きて、今日ぐらいは母に優しくしようと思いながら母に会うと
イライライライラしていました おむつを床に投げ捨てたりして 反省してまた繰り返す
同じ言葉ばっかり話す時がある 同じ言葉ばっかりするなと怒鳴る
周りの話が判らないので自分の話をするしかない
其れを繰り返す 話に参加しようと思う うるさいと言うので黙ってしまう
周りがワーッと笑うと一緒に笑っていました(話の内容が判らないのに)
認知症が家族にいるときは当時は隠すようにしていた 或る部屋から出さないとか
母は父が手を取って連れだしたりしていた(恥ずかしいことではないと)
私は自分の母がこの様になったことを恥ずかしいと思っていた
父はスケジュールを作って介護していた 或る時に散歩に行った時に 母が奇声を発したら、近くにいた子供が小石を拾って、こちらに投げつけてきて逃げて行った
私は頭にきて 待てと言って 追いかけて行こうとしたら 父がお前こそ待て と言って止めて
あの子たちは母親の病気を知らないからあのような行動にでた
今度 あったら大切なことだから説明してやればいい
お前は母の病気を知っているだろう お前こそ恥ずかしがっているだろう と怒られた
お前はこの姿を見て恥ずかしいと思っているかもしれないが、俺は御母さんが奇声を発しているこの姿が 必死に生きてる姿に見える と言う
お前には判らんか 御母さんはこの病気を抱えながら必死に生きているんだと 其の姿がこの姿なんだぞ 本当に自分の母親の姿が本当に見えないのかと
其の時の事が 頭に刻み込まれました
優しさ、責任、夫婦愛 母親が痴ほう症と判ったときに 父は心臓病を患っていました
御母さんの世話は俺が全部やるから命がけでやるから、と宣言した
私としては そんなに母親を愛するとか 母の事を診ようとはまったく思わなかった
息子がずーっとやりながら母を愛することとははこういうことなんだと
母の痛みを感じると言うことはこういうことなんだと、母がつらい思いをしていると言う事が自分の事として感じると言うことは、こういうことなんだと思い始めた
母が認知症に成らなかったらこんなに母の事は思わなかった
母が認知症になったからこそ私と母の絆の結び直しをしてくれたように思う(父親とも同じ想い)
母親に父は優しいまなざしを向けると 言葉に成らないので父にぱっと抱きつく
二人でハイハイハイと40分ぐらいやってた(父と母も結び直しをやっていたと思う)
自分達にとってはマイナスの事だと思うが、(母が認知症になったということは
人生 色んな事がありますよ )これを受け入れることによって、見えて来るものは一杯ありまね 絆の結び直しもそうですし、 母を思いやって行くと言うか
自分が母から育てられていると思った 途中で 振りかえって思ったのではなく
人を思いやる気持ちと言うものを母がグイッと引きだしてくれている感じがしていました
母が育ててくれる 自分を (繰り返し イライラとの イライラが長いが)
「母が育ててくれる 自分を」 を瞬間 思う
言葉も動きもない様な人間が そこに生きているだけで大きな意味があると思う
人は存在するだけで、本当に価値があると思った
其の関係性の中で私達は生かされていて、生かされていてここある自分と言うものにどんどん気付き始めた
面倒を見る気持ちも変わってきた イライラ 感情はどうにもならない
けれども 自分の精神が鍛えられたのが判る でも又イライラする
楽になったのかなと言う気持ちはある 講演者として回っていて 帰った
母が調子が悪くて呼吸が止まる 死に目位は合わせてくれと思っていた
一度息が切れた 良かった良かったと思っていたら、回りの看護師さんが「藤川さん 藤川さん」と叫んだら 息を吹き返した それで私は複雑ですよね
講演の為に出掛けて行かなくてはいけなくなって 新幹線の中で母の死を知らされた
母の亡きがらを見て涙は出なかった (これでゆっくり母は休めるなと
良かったと思いました) 父から任されたので責任を果たせたなと思った
命のリレー 観念的な事を言われても判らないと思っていた
認知症を抱えながら必死に生きている母を見た時に この生きざまをしっかり見る事が私が母のバトンを継ぐことなんだなと 亡くなる何日か前にふっと思った
私を一人前にしてくれたと言うか 私を育ててくれた
母を私はずーっと支えていたと思っていた 振りかえってみると 私が母に支えられていた
育てられていたなあと思った
だから「生かされて ある」と言うことは そういう事ですよね