「第三男」でチターの楽器が知られるようになりました 哀愁にあふれ多くの人を魅了します
子供の時にチターの曲を始め得て聞いて、大人になって演奏したいと、単身でドイツに勉強に行きました
現在は世界的な実力を誇るチターの第一人者です
今持っているチターは弦が42本有る 少ないものは3本~74本までいろいろある
自宅には67台ある
こういう楽器が欲しいと職人さんに注文する(3~4年掛る)
味わい深い、哀愁を帯びた音色
2つの異なった楽器を一人で弾くようなもの(ギターとハープを一緒にしたようなもの)
指で金属弦を弾くので10年ぐらいは厳しい
指が切れるそのうちに良い皮膚が指先に出来て来る 良い具合のタコが出来て来る
15~20年やっていると柔らかいタコが出来るようになる
肉体を楽器になじませる
5mm位の間隔しかないので引きやすい様なタコが出来ないといけない(段々に成っている)
ピックで弾くと良い音は出ない 柔らかいタコで以って弾く事により柔らかい音が出る
最初にチターの曲を聞いたのが戦時中 叔母の家でレコードを聴いた
これがきっかけだった 音色に感動した
楽器は知っているのは単語だけだった それが私の人生を決めてしまった
高校卒業して 東京に出てきて仕事を始めた(米軍キャンプ)
チターを持っている将校がいた それを聞いたり、触らして貰ったりした
レコードで聞いた音とは違っているなと思った
「第三の男」で映画で聞いて、今までとは全然違っていた
日本では勉強できないのでドイツに行かないと出来ないので、ドイツに渡った(昭和37年)
保証人の手紙が無いといけなかったので日本にいるドイツの人から、本国の友達に連絡して、保証人に成って貰って、ようやく外務省に許可を貰う事が出来た
(片道切符で行った その時は夢中だった)
言葉はすこし(ラジオのドイツ語講座、ドイツレストランでやっていたので)出来る程度だった
チターはまだ弾けなかった(ヴァイオリンは子供の頃からやっていたが)
叔母が音楽の先生をやっていたので、ピアノとかヴァイオリンとか作曲を教えてくれた
音楽には規則が無いと最初の頃から教えてくれた
レコードを聞かして貰うのが御褒美だった
300ドル持って行く 生活するには仕事が無いといけない
ヴァイオリンのオーディションを受けて受かることが出来た
仕事の契約をして 滞在許可証を貰わなくてはいけない
3つのビザ(労働ビザ、滞在ビザ、アルバイトビザ)が無いと 滞在できない
結婚していて、子供がいたが 単身でドイツに行った
3つのビザを日本の外務省に送って、ようやく妻と子供をドイツに呼ぶことが出来た
ヴァイオリンがそれだけ出来るのなら、チターをやらないでヴァイオリンをやったらどうか、チターではドイツ人でも弾けないんだと こんなのをやっても先ず仕事が無いよといわれた
それが昭和38年 当時は何人かはいたが、弾ける人はいたが皆おんなじで教えることはしない
自分の作品を持っていないとマイスターに成れない ただ弾くだけではチターは駄目
3000曲位はある(古い曲から自分で作曲したものまで)
自分で表現できるような弾き方が出来ないと駄目
弾き方が地味なので今の弾き方に合わない
私は魅力の方が強くてのめり込んでしまった 先ず楽譜が無い
覚えたての曲を弾いていると、喜んでくれて、自分でも益々深入りした
ヴァイオリンも喜んでくれたが、チターは心底喜んでくれた
修行は4~5年 自分の才能を過信していたが、チター初めて見たら大変なことが判った
手のタコ タコをつくるまでが大変だった
日本に帰ってきて ドイツから仕事の話が有った
もっとドイツに居たかったが子供の事があるし、帰ってきた
最初のうちの演奏会はヴァイオリンとチターの両方をやっていて、段々とチターを増やしていった
ドイツの方が理解してくれた
今から40年前ぐらいから日本でも理解してくれる人が増えてきて呉れた
後援会も出来た
CDをつくって保存できるようにした
聞いて子供が魅力を感じてくれると思ってCDをつくった
自分で音を作って行かないと駄目 それを如何に表現するか
息子もチターを演奏している