2012年12月2日日曜日

渡辺保子(映画評論家)      ・映画と歩んだ私の人生

渡辺保子(映画評論家)               映画と歩んだ私の人生  
15歳のときに、人生を決めた一本の映画と出会います それ以来映画の魅力に取りつかれ、高校、大学と映画の道 一直線 日本大学芸術学部映画科在学中に,世界映画社の編集部員に採用され28年映画雑誌の記者として歩み出しました  
日本映画の黄金期 映画界を取材する女性記者は珍しかったと言われます  

映画を見ることが仕事 幸せだと思います 
「映画ファン」大正11年創立 早田さんに写真を取って貰うのはステータスであったのでノーギャラだった
当時中村錦之助  大川橋蔵等が一世を風靡していた時代 
美空ひばり親子から「女史」と呼ばれた 池辺良からは「ポコ」ちゃんと呼ばれていた
小学校5年の時に古川ロッパの映画にエキストラとして出た 
「敵は幾万有とても」(昭和19年8月31日公開) ロケに来ていた 斉藤寅次郎 監督
花井蘭子 山根寿子 (二人とも日本的代表の美人)  徳川夢声  等が出演した
中学3年の時に、アメリカ映画を見た 「永遠の処女」 
(これは私の話だと思った,当時私は高校の先生に憧れていた) 
これで映画にはまってしまった
 
シャルル・ボワイエ主演  映画クラブをやろうと高校の時に思った 
当時地方は半年遅れで来ていた 
土曜日に夜行で2カ月に3回ぐらい東京に映画を見に行っていた
9時間掛った 朝5時に着いて 姉が結婚して東京にいたので姉の家に泊って、日曜日は朝から映画を見まくった  その日に帰った 年間300本弱観る
日本大学芸術学部映画科に入学する 
200人の中に4人が女性 映画学科では2人だった 在学中に映画雑誌会社に就職する
淀川長治さんが面接に立ち会った  70人面接したが、私のみが受かった  
昭和28年2月13日が初出勤

淀川さんは神経が細かい人だった 本当によく周りを見ていた 
美空ひばりは晩年は歌の女王と呼ばれたが、その当時はもう会う機会はなかったが、若い頃はよくあった 良い子だった  いとしい 守ってあげたい感じだった
「悲しき口笛」 昭和24年 三益愛子の映画       
中村錦之助 「笛吹き童子」 「紅孔雀」で有名になる
石原裕次郎 男性からも人気が有った 
昭和30年代 大川橋蔵 中村錦之助 石原裕次郎 美空ひばりを載せないと雑誌は売れなかった
山本富士子 光り輝いて見えた  目が覚めるような美人は居るものだと思った  
原節子  この二人は違っていた
渥美清 洋画が好きだった 地下鉄でばったり会ったことが有った 
鶴田浩二  初めて有ったときに ニコっと笑ってくれて、背中がバーンと来て震えましたね 
(20歳の時)  家族ぐるみでその後したしくして頂いた

映画の魅力 映画は悲しい時、辛い時 其の時だけでも忘れられる  
自分と違う人生を見れる、体験できる
時代劇 演じる人も無くなる 技術を持ったスタッフも無くなってきている  
時代劇は日本が誇る文化なんですよ 
ずーっと続けて行って貰いたいし、何とか伝わってもらいたい   
時代劇を作るには 乗馬、所作 殺陣 衣装  日本舞踊 スター 技術 いろんなものがからんでくる  
伝統的な映画も残してほしい