大森安恵(東京女子医科大学 名誉教授) ・糖尿病患者と向き合う
高知県安芸市の生まれ 昭和31年東京女子医科大学を卒業。
日本の糖尿病と妊娠に関する研究分野を確立した方で、世界でも高く評価されています。
平成9年には女性で初めて日本糖尿学会の会長に就任されました。
現在は神奈川県にある海老名糖尿病院のセンター長を務めています。
診察をするには臨床研究とか学会の発表とか社会活動とか、診察以外のことがあるので本当に大変に忙しいです。
診察するには勉強しないといけないです。
11月9日から1週間糖尿病週間 昭和40年から始まる。
鯉に糖尿病があることを日本人が見つけている、現代病と思われているが古くからある病気です。
高知県の山村で生まれ、何故か物ごころついた時にはこの子は医者になる子と言われて育ってきました。
ハンセン病の治療をしていた小川正子先生が恩師で、ああいう先生になりたいという目標がありました。
女学校に行っていたときに、或る先生からこの学校からでは医学への試験は受からないと言われ、昭和23年都立桜町高校(優秀な学校だった)に2年の編入試験を受けていきました。
重圧は無く、やらなければならないという事だけでした。
東京女子医科大学 吉岡彌生先生の学校にあこがれていたので、入学しました。
ひたすら学問をさせられました、遊ぶということは無かったです。
吉岡彌生先生は戦争中に婦人活動をして公職追放されていて、解除されたばかりで、実際にお会いしたのは入学式の時で、ふくよかな優しい方でした。
新聞部に入っていて吉岡彌生先生に
インタビューをしたことがありますし、心から尊敬しています。
「苦しい事は宵越しをしない、今日あった苦しいことは今日片付ける。」
「人に講演、講義をする時には、必ず一番判りそうにない人の顔を見て講演しなさい。」
ということはよく言われました。
吉岡彌生先生と会えたことは、私の人生の幸せであったと思う事の一つです。
昭和34年に亡くなりますが、その時にも当直で亡くなられた時にお世話が出来ました。
昭和34年 結婚 相手は医者ではなかったので父親は絶対だめだと言われたが、何も言わずたった一言だけ「貧乏かもしれないけれども、心は貴族です」と言いました。
父には従わなかったので父親からは怒りと悲しみがあり、親と思ってくれるなと言われ、10年間はずーっと嘆いていました。
父は10年経ってやっぱりこの男と結婚して良かったねと言ってくれました。
医学はやればやるほど深くて、地元に貢献することが前提だったが地元には帰ることができずに、父親からは地域社会よりももっとおおきなところで貢献する様にという風に言ってくれて、10年後に許してくれました。
無給医局員の時に妊娠してしまって、流産してほしいと思ったこともあったが、死産してしまって、悲しみをこらえて診療している時に、偶然二人続けざまに糖尿病の診断がつかなくて死産した方を受け持ちました。
糖尿病があると危険だから妊娠させるべきでないと言っていたが、悲しむ患者さんを前にして、教授が本を貸してくれて、1921年インスリンが発見されて、1923年には人類を糖尿病から救ったという事でノーベル賞を貰っていて、欧米では糖尿病の患者さんでも妊娠を許可していて、日本では間違っている事を感じた。(昭和36年頃)
糖尿病があっても妊娠できるという事を世の中に広め始めて、女子医科大学で第一例が生まれたのが昭和39年2月でした。
世間では妊娠するとおろされるという事がそれまで多々ありました。
忙しく仕事をしなければならず、私の心を汲んで子供がお腹の中で自殺した、というような思いがあり、子供が死んで導いてくれたと思います。
毎年毎年皇居のお堀端に彼岸花が咲くので、貴方が教えてくれて、導いてくれて日本の糖尿病の患者さんたちが妊娠ができるようになったので有難うって、お礼を言いに毎年欠かさず行きます。
死産の時に病院中が割れる様な泣き声を出して泣いて、赤ちゃんは見せてもらえないし、会っていないが、主人やしゅうとめからこんな子だったと言われ、想像はしています。
糖尿病と妊娠の分野を開拓するために子供が犠牲になって、導いてくれたと思っています。
糖尿病と妊娠の分野は私がやらなければいけないと思いました。
欧米では正常な妊婦さんと同じような血糖値にすれば糖尿病があっても大丈夫だということが確立されつつあって、むこうで一生懸命勉強しました。
昭和30年、40年代は糖尿病を隠して結婚した人がいて、50年代60年代は普通になってきましたが
糖尿病を周りに知られたくないという人、偏見を持って居る人はまだいます。
その後、子供二人を設けて大きくなっていますが、私はほとんど病院だったので、子供達はかわいがってもらえなかったといっていますが、仕事と子育てを両立する事は大学に行ったら大変難しいです。
心理学者の人から、スキンシップが少ないなら、必ず髪をとかしてあげなさいと言われて、必ずやっていました。
医学は日進月歩なので途中で中断したら、元に戻るには凄く時間がかかるので辞めるわけにか行かないので辛いところはありますが、常に勉強していなくてはいけないと思います。
いまだに学会には必ず行って発表もします。