小栗康平(映画監督) ・映画の原点に立ち戻る
1945年生まれ 早稲田大学第二文学部卒業後、フリーの助監督となり、浦山桐郎、篠田正浩監督等の映画にかかわります。
1981年に宮本輝原作、「泥の河」で監督デビュー、日本映画監督賞、モスクワ映画祭銀賞を受賞するなど高い評価を受けました。
「伽倻子のために」、「死の棘」を製作、「泥の河」と合わせて戦後三部作と位置付けられています。
1996年に自身の脚本で「眠る男」を製作、モントリオール映画祭審査員特別大賞を受賞しました。
今回制作の映画「FOUZITA」は2005年製作の「埋もれ木」以来10年ぶりとなる作品です。
戦後70年、自身も70歳を迎えた小栗さんに、戦争を挟んだ激動の時代に日本とパリに生きた世界的画家藤田嗣治を通して伝えたいものは何かを伺います。
「FOUZITA」 画家藤田嗣治
1920年代パリの寵児として華々しくもてはやされた人ですが、その評価はそのまま当時の日本にあったわけではなかった。
日本美術界では やっかみがあった。
戦時中、戦争協力画を描いた事に依って、敗戦後に美術界の戦争責任を藤田一人が一身に負わされる形になる。
日本を出てフランスにもどり、それ以降日本には戻らず、フランス国籍を取り洗礼を受けてレオナール・フジタに変わった。
藤田は一般的に知っている程度だった。
フランスとの合作となった。
3年前から話があった。
藤田自身が著作権の権利に慎重な人だったが、君代さんもデリケートに維持していた、戦争画の問題が一番大きいと思う。
エピソードの多い人間なので、面白おかしくエンターテーメントにしようと思えば出来なくない人物なので、いろいろな映画人が映画にしたいという風な希望は持っていたらしいが、君代さんがガンとしていやだといっていましたが、或るいきさつの中でどうぞという話になって同意書を持って私のところに来ました。
絵を全く使わないで藤田を描く事は不自然なので、絵を使うことは最低条件なので、映画に絵を使っていいという許諾が無い限り映画は成立しなかった。
1920年代の裸婦と戦時中の日本の戦争画の二つを並べて、描きたいというのはごく最初から自分で決めたことです。
波風の多い人生を生きた人ですが、個人の個性から来るものがあったと思いますが、何よりも文化の衝突だと思います。
江戸末期まで油絵は無かったが、東京芸大をでて、単身でパリに行って、あそこまで売れて、格闘して、そのことから来る衝突とか歪とか、いろんなものを抱えて、いろんなものを引きずったと思うし、現在の我々の問題でもあるわけです。
戦争画を敗戦後すぐにマッカーサーが集めろと命じて、藤田が担当になっていて、後でいろいろな事を言われる原因にもなった。
絵がプロパガンダか芸術かで、評価が分かれて、芸術ならばアメリカが持ち去る権利は無い、結論が出ないまま扱いかねて、そっくりアメリカに持って行ってしまって倉庫に眠っていた。
その後政府間の交渉があり、永久貸与の状態で所有権はアメリカだと言われていて、140点のうち一割は藤田の作品です。
一挙公開の話もあったがいろいろと問題があり出来なかったが、、その後ぽつぽつと公開されてきて、今回所蔵している藤田の戦争画全作品14点が一挙公開されました。(12月まで公開)
藤田のエピソードは騒がしく、絵が持っている静けさ、波風の多かった歴史的人物を波風のまま描くのではなくて、それを静めた時に初めて撮れるなと思いました。
絵描きが主人公なので、絵を落としめない程度に映画もしっかりといい映画でなければいけないのでそれなりに考えました、絵画も映像も基本的には変わらないと思います。
以前の作品よりも丁寧にやりたいという感じはありました。
ほとんどパリでの撮影ですが、日本で撮っているシーンが何シーンかはあります。
前半はパリの生活のシーンですが、最初のシーンはパリで撮るのは難しいという思いがあり、フランスの役者に来てもらって日本で撮影しました。
パリの町並みは3階以上は1920年代と変わらないが、路面、一階、二階はCGで加工するというのが基本になります。
伝記という発想は持っていなくて、1920年代の藤田と藤田の生きたパリのモンパルナスの事物をしっかり見ようという見方で、同じようにしっかりと文化も背景も時代も異なる社会を、説明しなくても明らかな違いが浮かび上がって来るわけで、普段旅行等では気付かないことですが、違うということが歴然と判るのでそっちにかけたいという事が私は強かったです。
あまりにも今の世の中が判り易いことだけを相手にしている事について、映画に限らず社会全体に対して相当苛立つ思いがあります。
映画は、お客さんが入る事ということは、判り易く悲しい、嬉しい、切った張ったとかで企画が成立するわけでそこには組みしたくない。
前半がパリ、後半が日本、最後に又パリの戻り、藤田がクリスチャンになり象徴的に描かれている。
パリは動きがあり、日本は静かで色も抑えた感じになっているが、20年代藤田があそこまで売れるためにどれほど血みどろの格闘をしたか、どういう社会で格闘したか、ヨーロッパ近代の個人が戦い抜いて勝ちあがってゆく社会で藤田も勝ち抜いたわけで、40年代に日本でそういう社会があったかというと無かった。
明治以降の国民国家が形成されて、臣民という天皇の子という事でひとくくりになって、江戸社会が持っていた自然との共生とか、そういうものから40年代の戦時の日本と成ると、パリとでは明らかに社会も言葉もあらゆる事が違うわけで、違う事を藤田は両方生きたわけで、だからあとは考えてよと(聞きずらく正しいかは不明)、とは思います。
物凄く大きな違いを、矛盾を一緒に生きたわけで、それは人ごとではないでしょう。
27歳で藤田はパリに渡って、あちこちさまよい続けた人で、どこにも定着した事は無くて、戦後はパリでクリスチャンになって動かなかったが、幸せに居を定めていたかというとそういう気はしない。
藤田に日本に対して旅ではなく、もう少し奥深く日本の自然風土に踏み込んでほしい、そのための村を映画で用意したい、ちょっと幻想的な村の姿として感じられたのかもしれない。(?)
最晩年、教会の設計も全部やって、ステンドグラス、フレスコ画など藤田一人でやって、それを描きながら広沢虎造の浪曲を聞いていたというエピソードもあり、心の中はそう簡単ではないと思う。
小ぶりのかわいらしい教会で、奥さんも自分自身もそこに描いている。
表現って、最後は祈りの様なものだと思っていて、映画はその側面が凄く強いと思っていて、姿かたちを撮るわけなので、姿かたちをじーっと観るのが映画なので、最後は祈るしかないのではないかと思う。
映画はいろんなドラマなりがあると思うが、原点は人の姿をずーっと観る、人が生きた風景をしっかりと観る、ここだと思う。
観たあと最後は美しい気持ちになりたい。
騒がしく藤田像を捉えている人は多いと思うが、絶対そんなことは無くそれ以上2倍、3倍 背後に抱えた悲しみ、孤独はあるはずで、そこを観ずに華やかな行動だけで語るべきではないと思う。
「泥の河」から始まって6本しか撮っていないけれど、映画を続けていてよかったなあと思います。