2015年11月28日土曜日

加藤澤男(五輪体操金メダリスト) ・オリンピックと私

加藤澤男(五輪体操金メダリスト)         ・オリンピックと私
昭和21年新潟県生まれ 昭和43年メキシコシティーオリンピック、47年ミュンヘン、51年モントリオールと連続出場して3大会とも男子体操チームの団体総合優勝に貢献しました。
オリンピックでは個人総合 2連覇を果たす等日本選手としては最多の8個の金メダルを獲得、この記録はいまだに破られてはいません。
オリンピックでの活躍後は、母校の筑波大学で勤めながら後進の育成に携わりました。
また国際体操連盟の男子体操技術委員をおよそ20年務め、競技の発展にも尽しました。
来年のリオデジャネイロ、5年後の東京オリンピックを控え、お話を伺いました。

私が体操を始めたのは、中学からです。
5月ごろ体育の時間に幅跳びがあって、その脇に鉄棒がずーっと並んでいて、幅跳びの時間だったが急に鉄棒を1時間やらされて、3~4人集められて教務室に連れて行かれた。
体操部の顧問の先生から体操をやらないかと言われた。
当時は県大会が最終で、陸上では放送陸上があってそれが全国の大会だった。
体操だけではなくて、川から、山からいろんなことで遊んでいて、後あと活かされたと思う。
米屋に俵が天井まで積んであって、そこに登ったりして遊んだり、縁の下をくぐったりしていました。
遊びながらひっくり返り、ぶら下がりだとか、そういった体験をしてましたが、それが大事です。
高校3年になる年が新潟の国体の年で、、県で強化策を取ろうという事でした。
国体の強化という事で、叔父さんのところに籍をいれて、新潟の高校に行きましたが、そこからが
本格的になりました。
先生はインター杯で2位の選手を出している様な先生でした。

生徒もレベルの高い生徒が集まりました。
3年間国体強化の援助をしてもらい、一般の人からも応援もあり、秦野さん?という先輩にも目一杯面倒を見てもらいました。
中味の濃い練習でした。
大学に行くと4年生とでは大人と子供という様な感じでした。
道具の整備をやっているときに、鉄骨組みのトランポリンが倒れてきて、肘がかけて、そのかけらが動き回り時間が経つとかけらが丸くなってきて、痛みは無くなるが、曲げられなくなってきて、手術する事になり、取りだしてもらって、1年生の時はそれでほぼ過ぎてしまって、ようやく冬になって道具に触れるようになりました。
2年、3年と下住みで、口の悪い人もいて悔しい思いをしたり、また良い先輩もいました。
規定演技が変わった時に、早めに取り組めて6番か、7番に入れて、6番ならばオリンピックに出られるので、それからは意地でも練習をしようと思って馬鹿の様に練習をしました。
予選をトップで通って、東京オリンピックの組み3人と若手3人(私、監物永三、塚原光男) 6人でチームを組むことになり、メキシコ大会に出るのですが、種目別 床、あん馬、吊り輪 3種目をやりました。

跳馬、平行棒、鉄棒も出る権利は持っていたが、跳馬で疲労と感覚の狂いが出て、腰を痛めて腰椎分離症で腿のあたりが感覚が無くなり、その場で石膏をまかれてそのまま戸板に乗せられて、選手村に帰って来ました。
自分の点数を見ると次の事を考えられなくなるタイプなので、点数を見ない様にしていました。
6種目終わって日本が勝ったという時に、コーチが台の上に上がって挨拶しろと言われて、自分では勝ったという自覚がなくて頭を下げていました。
(自信がなさそうだったのは、自分の点数を見ていなかったという事です)
周りが何があっても自分の気持ちは今からやることに向けられるかどうか、4年間訓練していました。
電光掲示板だとか周りの関わりが入ってくると困るので、訓練しました。
4年後のオリンピックの時にはソ連のアンドリアノフが対抗馬でどんどんやってくる、並行して来て、掲示板に0.025で彼がトップに出ていて、最終種目に彼は守りに入って固くなるのが眼に見えました。
ベテランは経験を活かしたやり方ができるので、4年間体操の練習というよりも、気持ちの整理、切り替えに重点を置いていたのが非常に重要でした。
今度は転がり込んできました。

中山彰規、監物永三、塚原光男、笠松茂、私 どれとっても世界戦選手権、オリンピックでメダルを取っている選手で、後一人でチームを作るので負ける気はしなかった。
小野さんは言うに事欠いて、メダル全部持って来いと言っていました。
あん馬だけは日本にメダルを取っていなかった。(日本人は手が短い)
3回目がモントリオールで日本が落ち目になってきて、笠松さんが2週間前に盲腸をやってしまって手術をして、彼が一番のポイントゲッターだったが、補欠を入れなければならず、藤本俊が床で膝剥離骨折をやって、あん馬は何とかごまかしたが、吊り輪もやったが着地も普通の人と同じようにやろうとして踏ん張って駄目で、途中でチーム一人無くして5人でやる試合を強要されてしまった。
震えながらやった覚えがあります。
終わってから窮地を脱する方法を教えてくださいと、質問があったりした。
同じ失敗は二度と起こすまいとの思いは有ります。
失敗の経験をしないと親身にならない。
状況を知っているからベテランほど強い。