2015年11月10日火曜日

岡本宮之助(新内節演奏家)    ・新内節の魅力を伝える

岡本宮之助(新内節演奏家)    ・新内節の魅力を伝える
1960年 昭和35年東京谷中生まれ 大正昭和平成の3代に渡って新内節で活躍した岡本文弥は大叔父にあたります。
幼少時から岡本文弥の芸に接してきた岡本さんは、19歳の時から本格的に新内節の世界に入り、浄瑠璃を岡本文弥に三味線を4世、5世の岡本宮染に師事したほか、邦楽研究科の平井澄子にも薫陶を受けました。
岡本さんは東京と大阪の稽古場で弟子たちを教えるほか、各地の演奏会で新内節を演じています。
古典や岡本文弥が残した作品を伝承する事に力を注ぐ傍ら、新作の創作と発表にも取り組んでいます。
新内節の将来を考えると、若い世代に新内節の魅力を味わってもらう事が大切だと言います。

弟子は10人位だと思います、最近若い子が入ってきました。
文弥は戦前から反戦の新内などを作っていて、70年を記念してやろうという事でやりました。
「西部戦線異常なし」、「河童の道行」(東京大空襲)等をやりました。
松山市で「ノボさん」上演、12年前に野上周さんの作詞家から持ち込まれた歌詩に私が節をつけたものです。
正岡子規の亡くなる時の場面で絶筆の三句が主題になっているもの。
新内節を知らない人が多いので、文化庁から補助金を頂いて、新内協会が若手後継者の育成の会をやっています。
鶴賀若狭掾さん、新内仲三郎さん(両者とも人間国宝)に最後に演奏してもらっています。
「伊太八」 演奏
「愛染めてより一日もカラスの泣かぬ日はあれど、お顔見ぬ日はないわいな・・・」

一中節が京都にあり、江戸に下ってあたらしい音楽をやろうという事で宮古路豊後掾と名乗り、豊後節は江戸で人気になり受けるが、禁止になってしまって(煽情的な歌詩と節で世の中を乱して心中が増えたという様な説) 江戸所払いになり、弟子が困って常磐津、富本(発展して清元に)などに独立、そこから富士松薩摩と名乗る人が出る。
そこから分派して鶴賀若狭掾がでて、大天才で沢山の名曲を作った。
その門下に鶴賀新内(美声家 1751年 - 1771年)がいて、新内という名が付きました。
(おおざっぱな歴史)
常磐津、清元などは歌舞伎と結びついて伴奏音楽として活躍するが、新内はそこに入れなかった、素浄瑠璃と言って、舞踊、歌舞伎とは深く関わらずに生きてきた。

中学時代は器械体操にのめり込んでいて、怪我をして腰を悪くして辞めざるを得なかった。
高校時代は子供会のジュニアリーダーを中心にして暮らしていました。
祖母が文弥のお母さんの芸養女に入って、ずーっと文弥の妹で演奏活動は一緒だった。
大学を落ちて、三味線を弾いてみないかと母から言われて、手ほどきを受けに文弥の家にお稽古に行きました。
周りからも期待があり辞めるのにも辞められない様な感じでした。
常に三味線の音の中で暮らしていました。
文弥も音を染み込ませる事が早道だし大事だと言っていますし私もそう思います。
修行は厳しいとは思わなかったが拘束時間が長かったのが大変だった。

岡本文弥 101歳で亡くなる。1895年生まれ
早稲田大学中退後、文芸誌の編集者をしていた。作詞・作曲と新内舞踊の開拓に尽くした。
威張る人が嫌、戦争が嫌という人だった。
文弥の母親が持ちものが沢山数があって、文弥も同様でした。
抱えていないで、どんどん演奏する事が大事なことだと思います。
「戦争は散らかすからいけない」(戦争はいけない)
「コツコツ生きる仕事をする」(一歩一歩クリアしてゆくしかない、毎日毎日ちょっとづつやっていればいつか花咲く時があるんだろう)
という様なことはよく言っていました。
谷中は外国人が多く来ていて、呼びこんで三味線などを弾いてもらったりしています。
マーケットはあるのかもしれないが、どこにあるのか判らないが、沢山の方に新内節というジャンルがあるという事を知っていただきたいと思います。