加藤登紀子(歌手) ・戦後70年を生きて、今伝えたいこと
昭和18年旧満州 中国ハルビン 3人兄弟の末っ子として生れました。
間もなく敗戦となり2歳の時に、母や兄弟とともに日本にひきあげます。
小学生時代は両親の出身地、京都で伸び伸びと暮らしますが、親戚の離れを借りての生活はどこか根なし草の様だったと言いいます。
その後東京に移り、1960年代の安保闘争のデモなどに参加、1965年東京大学在学中に歌手デビューします。
以来人々の心の奥に届く歌を模索し続け戦後70年の今年歌手生活50周年という節目を迎えました。
戦後の日本の歩みがそのまま自分の人生と重なるという加藤さんが語った、引き上げ家族として暮らした京都での思い出や、これからを生きる人たちに伝えたいメッセージ等を伺います。
2歳8か月の時に貨物列車に乗って、引き上げの旅を1カ月以上して、佐世保についてそこから又貨物列車に乗って京都駅について、五条辺りに母の実家があったので、辿りついた訳です。
父が翌年に復員して、家族で東京に出ましたが、色々あり挫折もあったと思うが、又京都に帰ってきました。(5歳の頃)
父は自伝書で、又東京に行く間の7年間はどん底の生活だと書いていましたが、私にとっては景色はいいし夢のような時代だった。
母も本を書いたが、おかずを買えない時は鴨川で草を摘んでおかずにしたと、書きました。
小学校2年か3年の時に音楽の点が悪くて、母は人間の喜びの一番大切なのは音楽、絵を書く事、身体を動かすことだと言っていたが、私はその全部だめだったので、母が嘆いて、2年の時にバレエを習いに行って、歌うことが苦手なのはさびしい人生になるという事で歌も習いに行きました。
母は洋裁をやっていたので、イヤリング、ハイヒール、毛皮のコートで飛び抜けている様な感じで、
兄の保護者会の時に、キチンとお化粧をして来るから、やたら目立ってしまっていた。
そういう事から考えると、私としてはお金がなかったとか全然結びつかなかった。
当時米軍の放出品が無料で或いは安く貰えたらしい、そこに衣類コート等があり、母は毛皮のコートがきることができ、縫い直して私たちの洋服に仕立て直してくれたりしました。
周りの子供達とは違う装いなので、ちょっと恥ずかしかった。(同じようにはんてんを着たかった)
母はハルビンで新しい文化を身に付けた女性として帰ってきたが、子供心にうちの家族って一体何なんだろうとの思いはありました。
日本という国の事を知らないで育ったのだから、日本の文化風習を学習していかなくてはいけない、と母から言われ作法等習いました。
神棚もないし仏壇もないし、根なし草的な家族として京都にいました。
家族は東京に移り当時高校2年生の時に、日米安全保障条約反対を訴えるデモがわきあがり、学校帰りにデモに参加しました。
戦争から15年しかたっていなくて、あの頃文化人も学者も皆参加していました。
参加の思いは、16歳で自立意識がそそりたってくる年齢だったんでしょうね。
母は大陸で取り残されて、自分自身の判断で生きるしかなかったので、国に、社会にもたれかかることはできないという自立した女性で、いまから思うとすごい人だと思いました。
兄達も学生運動をしていた時に、そういう人たちを一番応援する女性でした。
国を動かすことは生易しい事ではないが、一人の市民として誰か声を上げる人がいる社会が素晴らしいんだと私に母は言っていました。
ハルビンから引き揚げるときに、ところどころ線路が破壊されていて、その時には歩かなくてはいけなくて、母は貴方は自分の足で歩かないとここで死ぬ事になるのよ、と2歳の私に言ったと言ってました。
7人目の孫が2歳になるが、丁度私の戦争が終わったころの赤ん坊の姿で、母は貴方は自分の足で歩かないとここで死ぬ事になるのよ、と言い聞かせた事は今頃になって深くリアリティーを感じるが、ウンと頷いて歩いたというそのことが、私というものを作ったと思います。
一人寝の子守唄、知床旅情を歌って、森繁さんに出会い、森繁さんがハルビンを知っており、大陸でアナウンサーをしている人だった、あえたのはそういう運命ですね。
貴方は赤ん坊だったから記憶は無いけれど、貴方の声の中にはあの大陸の冷たい風のなにかが住んでいるね、あの冷たい風を知っている声だねと森繁さんに言われました。
意識している声ではないけれども、森繁さんと出会ったこと、私が自分が生まれた時にそうやって生き抜いてきたことが私の歌手としての土台ですね。
芸能活動に集中するためにデモへの参加は控えていましたが、1968年決意の末、再びデモに参加します。
自分自身の東大の卒業式のボイコットデモです。
歌手である前に自分らしく生きたいと考えたからです。
ちゃんと加藤登紀子をやりなさいと、生まれてから全部の事をちゃんとやるのが加藤登紀子でしょうというのが、初めて自分の心に覚悟を決めたのが1968年だったんですね。
加藤登紀子というのをちゃんと生きようという決心と、どういう事を歌って行けばいいかという問いかけはそこから始まったと思います。
賛成反対、対立のもっと奥に向かって届いていく歌でないと駄目だと思いました。
心の奥深くに伝わるものさえあれば、賛成反対とかいう、そういうもののもっと奥のところで人としての本質は手をつなぐことができる、そこに向かって私は歌いたいと思いました。
デビュー50年のいま、改めて多くの若者がデモに参加したあの時代を歌っています。
1968年を描いた 「1968」(2008年に作曲)
歴史って、そのひとはその人が見てきたことしか見ていない。
1968年に日本で、世界でどんなことがあったのかは知り尽くすことはできないので、私にとっての歴史を語り続ける、私が感じ取れるものだけを歌っていけばいいと思って、私にとってだけの1968を歌にしようと思った。
枯れ葉剤で身体が二つにくっついて生まれた「ベト」ちゃん「ドク」ちゃん、「ドク」ちゃんが結婚して日本に来て、私のコンサートに来てくれて、吃驚した。
直後にベトナムに行く機会があり病院を訪ねたが、1975年にベトナム戦争が終わって、2008年まで30数年たっているけれども、まだ枯れ葉剤の影響を受けた赤ん坊を一杯見ました。
2008年に衝撃を受けていろんなことがかさなって、「1968」という詩を作ったんです。
その人の運命の中に一つ大切な原点があるとすると、私にとっては1968が大きな噴火口、エネルギーのるつぼだと思います。
その時のさなかにいたからああいう風に歌えたことはあると思いますが、思い出だけでは生きていけないという様な失恋の歌があり、思い出だけでもすごいなと、70年年月が過ぎると、取り返しが付かないほどの沢山の経験をして来たというそのことに対する愛おしさ。
2011.3.11に大地震がありましたが、あの時に物凄く自分が戦争の中で生まれて、無一文になって生き延びたことの年月のことが自分の中の土台にある事が大切に思われた。
この出来事にあった時に私はこの60数年分をかけてできることに向かっている様な気がしました。
原発事故を含めて人類があるいてきたいろんなことに対するとてつもない課題を突き付けられている、このいまをどうやって生きるかという事のために、自分の歴史の中の経験の全てを生かさなければならない、そんな気持ちになったんです。
ベトナムで戦争が終わっても消えていないことがあるように、日本でも戦争があったことの消えていないことがいっぱいあるが、それと同じようにあの日、あの時あの場所であの人とこうやっていたね、そのまま会う事もなく過ごすが、だけどどうしているだろうと思える、懐かしさ、気がかりだったリする事やいろいろな事を経験した時に、生きてきた年月の全てが凄く大事だと思えるようになりました。
東日本大震災の時に日本は大きく変わったと思う。
21世紀はいったいどういう時代なのかが凄く鮮明になってきて、どういう時代を作り上げてしまったのか判ってきた、ここからどうやって生きて行ったらいいのかという事に対して、答えが見えやすくなってきた時代だと思う。
自分の人生を誰かに預けない、自分の人生を自分の手足でまかなう、判っている生き方をする、そういう風に生きていないと危ないですよという、そういう事が判ってきた時代だと思います。
もし戦争する様な時代にしてしまったら、人類は終わりです。
そんなふうな選択をするはずは無い、させてはいけないという事もあるが。
戦前と同じような時代になってしまうということはあり得ないと思っています。
自分がどう生きたいか、はっきり答えを持つ事、自分が生きたいビジョンに向かって遂げようとして生きる事が大事だと思います。
若い人に願いたいことは、何が自分にとって素晴らしいかを確かめてほしい。
自分の一番大切なもの、愛おしいもの、すばらしいと思うもの、それを沢山持っている事が大事だと思います、それがあればある程それを阻むものに対して、強い力で向き合っていけると思います。
自分の存在に対する不安感、無意味さ、そういう自分自身に対して、世界は自分から始まるのだし、自分が中心なのだから、雑音に惑わされないで、自分がこう生きたい、大事にして生きたい、それを確実に自分の中にもてる、そう生きてほしい。
今という時間の素晴らしさをもっともっと確実なものにしてゆく事が大切だと思います。