2015年11月27日金曜日

髙鶴 元(陶芸家)        ・赤色に魅せられて

髙鶴 元(陶芸家)          ・赤色に魅せられて
昭和13年福岡県福智町に400年あまりの歴史を持つ上野焼きの窯元の長男として生まれました。
26歳で独立して窯を開き史上最年少で日本伝統工芸展の会長賞を連続受賞する等、若き陶芸家として注目されます。
ハーバード大学に客員研究員として招かれたことをきっかけに昭和55年アメリカマサチューセッツ州ボストンに移り住んで伝統のわびさびの世界を大きく変化させ、赤を中心としたあざやかで生命力あふれる作品を発表し茶道具の世界に新風を起こしました。
近年は福岡県とボストンを行き来しながら、新たな陶芸の世界を築いています。

77歳を迎える。
自分の生き方はチェンジ、チャレンジ、クリエートなのでチャレンジ精神の赤は原点と思っています。
メニエール病になって 若者の病気で脳梗塞も疑われたが血管も若々しいという事でさらに挑戦していきたいと思います。
自分が渡って来た道は自分は後ろを振り返らない様にしています、さらにさらに挑戦の人生を続けたいです。
エマーソンという思想家がいたが、その人の言葉を書いています。
「人に踏まれて出来た道を行くな、それより道なきところを行き、道を残せ」
自分の身体に沁みこんで、それを一生の指針として生きて行きたいと思っています。

上野焼き 小倉藩の大名だった細川忠興が深くかかわっていた。
朝鮮からの渡来の陶工を抱えて自分の御用窯として約400年前に煙を上げた。
細川忠興は利休七哲のひとり。
自分もトライしてみたいと、古い窯跡を発掘して回って、最初は研究した。
特徴は柔らかく焼けていて、その頃の窯は割り竹式登り窯と言って竹を割って伏せたような窯でレンガを使わずに石と陶土で作っているので 天井は陶土なので輻射熱で優しいので、本当に柔らかい感じに焼けている。(耐熱レンガでは輻射熱が強くて固い感じに焼ける)
灰薬 判らなくていろいろテストして89種類をやったが、8~10種類だという事が判って、灰薬を作りながら、又新しい灰薬を作りながらやってきました。
樫の木 酸化炎焼成でやると琵琶色の様なものができたり、還元炎焼成は蒸れた様な炎が行くと土の中の鉄分を引きだすので灰とミックスして、非常に綺麗なブルーがでるんですね。
同じ上薬を使っても全然違う色が出る。

ハーバード大学からジェローム・コーエンという先生が来られて、これは凄いと言われて、ハーバード大学に招待しようという事で、周りは皆行くなと反対したが、行きました。
異文化の中で苦労したことが身に沁みて判りました。
当時若くして賞を頂き、お客さんが多くて、各界の人が集まってきて、毎晩宴会で酒を飲んで、身を持ち崩すと思って、違った自分を発見しないといけないと思った矢先に、ジェローム・コーエンがきたので、渡りに船だった、妻が大賛成だった。(家庭崩壊寸前だった)
ニューイングランドはイギリスの古い体質の人たちがいっぱい住んでいて、最初は白い目で見られたりして、登り窯を築きたいと思ったが、絶対してはいけないと言われてしまって大変だった。
ガス窯もやったが、大きすぎると言われて、研究しながらやるんだと言ってガス窯の許可を頂いた。
灰を取りよせて89種類をやったが、色あいが出ないで、味わいも出ないで魂の抜けたようなものができて、これは駄目だと思った。
渋い落ちついた焼きあがりもふっくらしたものができなくて、いろいろやっていたらボストンの美術館の人が家に来て、君がアメリカの異文化に接して、カルチャーショックを受けたから、自分では意識していないだろうが君の古い遺伝子、4~6世紀の陶人の血が出たからこんな色が出てきたんだと、日本にいたら2~3代前の上野焼きの世界の延長線のものしかでないから、アメリカまで来たからこれが出たんだから、こういう仕事をどんどん展開してゆけと、励まされました。

高鶴レッドと言われるようになったが、古い私のいにしえの遺伝子と出会った様な感じで、涙が出るような感じだった。
日本にいるときは灰は植物的なもので、アメリカに来て、金属に代わり、又35年ぶりに夏に来たが日本の湿気の多さに驚き、しとっとした物ができるであろう、思考方法もじとっとした、人間関係もじとっとした感じで、むこうは乾燥しているから、からっとしていて、人間関係もからっとしていて、同じ赤でもからっとした赤が出る。
湿気の文化と乾燥の文化を今回身体の中で感じました。
アメリカの文化はいい意味での個人主義、日本とはすべてが反対だったのでカルチャーショックがあった。
良いも悪いもこういう考え方があるんだと言わないと、あれはおかしいという様な感じで見られる。
人まねではない、個を磨かなければいけない。
例えばりんご一つにしても、いろいろな見方があるという事を息子もアメリカで学んだ。

小学校に一年生の時に先生から富士山と太陽を組み合わした絵を書く様に言われて、友人はうまく赤い太陽と富士山を書いて褒められたが、私は黒い太陽と富士山を描いたら物凄く怒られた。
1980年からボストンの生活が始まり35年になるが、長いとは思わない。
ニューイングランドの古典的なもの等いろんなものを勉強できるのでいまは最高に幸福と思っています。
赤は視覚的にぱっと見た時にわっと目に入ってくる、そういうところに物凄く感じている。
周りがあまりにも高鶴レッドと言うので、今年は黒と金をメインにしたものを手がけている。
ボストンの裏庭に林があり30数種類の鳥が来たり、ハリケーンが来て木をなぎ倒したりするが、鳥、なぎ倒された木を型どりして抽象的なものを作ったり、そういったものの沢山のものを組み合わして、一つの作品にする様なものをこの頃展開しています。
日本の紅葉の赤は優しいが、ボストンの赤は兎に角強いというか燃えるような色ですね。

日本人の良さを発信しないといけないと思う。
私は群れるのは苦手な方なので、物言わぬ焼き物が500年後ぐらいには、大声を出して言えるものを一点でもいいから作りたいですね、それが夢です。
ボストンの博物館には日本の金の屏風などがあるが、あッと思ったのは桃山文化は金と赤ではないかという感じを受けて、金を使って見ようと思って金を使い始めました。
桃山時代はキリスト教文化が入ってきて、日本の土着の文化と融合して、21世紀は又違った文化が入ってきているので、それがぶつかって世界に羽ばたく立派な文化が誕生するのではないかと思う。
400年前の暗いろうそくの灯の空間で見るわびさびの茶碗と、いまの明るいLEDの灯りで見る茶碗は、負けないためには赤の茶碗、黒い金の茶碗とか、現代のわびさびはギラギラしたものでないと、わびさびの概念も時代によって変わってゆくと思う、変わっていかないと続かないと思う。
伝統、変革のない伝統は無いと思う。
筑後市で来年 家族(私と子供3人)の作品展を開く予定です。