善竹十郎(ぜんちくじゅうろう 狂言師) ・世の中まだまだ「笑い」が足りない
71歳 日本の伝統芸能の一つ狂言は、現在大蔵流と和泉流の流派があります。
善竹さんは大蔵流です。
狂言会で初の人間国宝になった善竹彌五郎さんを祖父に持ち、幼いころから狂言を継承してゆくために取り組んで来ました。
稽古のあまりの厳しさに音をあげ、何度も逃げ出そうと思った善竹さん、それでも伝統芸能を継承してゆく家に生まれた自分と向き合う事で徐々に狂言の面白さを見出してきたと言います。
そんな厳しい狂言の世界を生きてきて改めて思う事は、今の世の中笑いがたりないと言いう事です。
笑う事で人間関係は円満になるし、何よりも長生きにつながりますという善竹さんは今子供達をはじめ様々な場で笑いを広めようと活動しています。
狂言界の厳しさ移り変わり笑いの大切さなどについて伺います。
笑いはNK細胞、ができると言われているのでいつもにこやかにしています。
5歳から始めたと父から聞いていますが、父は戦争にいって、昭和19年に生まれて、生まれた時は父は知りませんでした。
関西から東京に移ってから私を育てることになり、謡い、舞等を教わるようになりました。
一挙手一投足に至るまで厳しく指摘を受けました。
初めての舞台が6歳の「靱猿」の猿の役 歌舞伎にも取り入れられた有名な狂言。
靱(うつぼ) 矢を入れる道具 大名がうつぼを保護する為に生きている猿の皮をはげという事になり、猿ひきが猿に別れの言葉を言って、猿の急所をうとうとした時に猿が打つ杖を取って、船の櫓をこぐ真似をする(最近覚えた芸の稽古と感違い)、それを見たら猿ひきは泣き崩れ、それを聞いた御大名は泣いて猿の命を助ける事になり、お礼に猿が舞を舞う事になる。
猿の舞う真似を面白おかしく大名が真似、楽しい事こそ目出たいと最後に収まる。
最初、父にその後、大蔵彌右衛門(祖父の次男)に稽古を付けてもらうことになり、父よりも厳しかった。
ちょっとしたセリフでも怒られ優しい言い方は無く、叩かれたり扇が飛んできたりした。
しゅちゅう辞めたいと思っていました。
大学の受験勉強、バレーの部活、稽古をやらなくてはいけないので、成績は上位には行けなくて、何とか大学にも行けました。
祖父は昔の話をよくしてくれて、これが大変な栄養になりました。
祖父を目標にしようと中学生のころに感じました。
人というのは色々な行動をする、これがいい行動と悪い行動があり、いい行動になるように狂言がさりげなく教えてくれているんだ、と祖父が教えてくれた。
人間として生きてゆく上での人間道、人間の弱さを狂言が表しているんだなあと、優しくわたしに教えてくれたおかげで、ライフワークは狂言で行こうと思いました。
厳しいところから逃れるために一時自殺願望を抱きました。(遺書まで書きましたが)
和泉流 野村万之助さん(当時悟郎)、山本東次郎の弟の則直さんと3人で狂言「新の会」をつくって、15年ほど続けました。(私が28歳の時 二人は5歳上)
流儀が違っていて、知らなかったことをいろいろ教えて頂きました。
一緒にやることに対して、流派が違っていることに対する非難は最初有ったが誤解していた様で、お互い流派は維持してやるということを説明して理解してもらった。
15年間続いた事は、いろんな形で見えないところでつながったと思う。
大学でも教えているが、学生がニコリともせず、どうして渋い顔をしているのかなあと思って、授業中に何度でも笑うきっかけを作るようにしています。
私の授業は癒しの授業だと言っています。
嫌なことが多すぎるとギスギス、イライラすると思います。
笑うとNK細胞、ができると言われていて、ストレスがたまるとNK細胞が無くなり癌細胞ができると言われていて、ガンにならないためにも笑ってくださいと言っています。
「福の神」演目
大晦日に二人が神社に行くと、福の神が大きな笑い声を上げながら現れる。
参拝に来るお前たちに楽しく生活できるようにさせてやろうと思うが、そのためには元手がいるぞと言うが、2人はその元手がほしいから参拝しているという。
神はお供え物が無いと言うと二人はお酒をささげる、楽しく生活できるようになる秘訣は、早起きをして、他人に優しくして、お客さんを拒まず、夫婦仲良くすることで有るんだぞと語って笑いながら去ってゆく。
心の持ちようで、修行の厳しいのが有難さに変わってゆく、感謝に変わっていった。
狂言の言葉から沢山のことが学べるなあ、と歳取って感ずるわけです。