2015年11月20日金曜日

松本 隆(作詞家)        ・「ことばの魔術師」の45年

松本 隆(作詞家)           ・「ことばの魔術師」の45年
東京都出身66歳、慶応義塾大学の学生だった頃、細野晴臣さん、大滝詠一さん、鈴木茂さんと4人でバンド 「ハッピーエンド」を結成しました。
松本さんはドラムスを担当し、同時に数多くの作詞も手掛けました。
「ハッピーエンド」の解散の後は作詞家として、松田聖子さんの「赤いスイートピー」、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」、寺尾聰さんの「ルビーの指輪」、キンキキッツで「硝子の少年」など数々歌を大ヒットさせ、今年で45周年を迎えました。
それを記念してコンサート 「風街レジェンド2015」を開催したり、トリビュートアルバム 「風街で会いましょう」を発表したりしています。
これまで2100曲を越えていて400組近くのアーティストに歌詞を提供しています。
30年以上たった今も新鮮さを失わないと多くの人を魅了しています。

神戸が自宅で京都が仕事場です。
東京は生活感が無くなり、いつも仕事が追っかけてくるようで断ち切りたいと思いました。
関西が憧れで、古い歴史があるところで、新しいものを作ったらいいんじゃないかという感じです。
45年はあっという間に過ぎました。
50周年をやろうとしていたが、大滝さんが亡くなり、自分でも焦って45周年をやろうと始めたら大騒ぎになってしまいました。
30周年の時に2100曲でした。(最近はあまり作っていません)
松任谷由実さんに「赤いスイートピー」を頼んだが最初は断られたが、丁寧に頼んでやってもらいました。
結構奥深くて、本人が消化できる二段も三段も上の作品を与えちゃったみたいなところはあるが聖子さんは食いついてくるんですよ。
難しい曲を無意識に自分のものにしてしまうし、全国に彼女の歌が流れている様な時代だった。

45周年で「風街レジェンド2015」を開催、フィナーレでポップスのライブで5000人のスタンディングオベーションは初めて観たし、舞台に立ってお辞儀しながら観客の顔を観るが風呂上がりの後の様に、上気していました。(出演者を見ると同様だった)
一体感があり皆が感動しているのは観たことも聞いた事もなかった。
自分たちで愛している作品がある。
僕と細野さんは「風の谷のナウシカ」が好きです。
音程リズムは有ってればいいぐらいのことで、何を伝えたらいいかという、エモーションの塊が人間の中にあってそれが出るんですけど、それが特別に持っている人がいるんですよ。
ドラムスをやりましたが大変でした。
45周年でCDも出しました。(詩の朗読)
2100を越える詩を作ってきましたが、作るのは大変でした、苦しめば苦しむほどでき上って良い詩と言われるものができると、その百倍ぐらいの快感があります。

中学の時から本は好きでした。
「ポケットいっぱいの秘密」(アグネスチャン) 1974年昭和49年 これがはじめです。
チューリップの「夏色のおもいで 」でも殆ど同時ですが、二つともベストテンに入ってしまいました。
作詞家は星の数ほどいたので、運も強かったです。
昭和50年 「木綿のハンカチーフ」(それまで都会の歌を作っていたので、素朴な歌を作りたいと思った)
木綿という言葉は当時殆ど死語だった。
その後沢山のヒット曲を世に出すが、その裏には血のにじむような事があります。
無から有をつくる、詩を作らないと全てが始まらない。
書き始めたらあっという間に出来上がりますが、それまでが苦しいです。
年中辞めたいという気持ちはありました。

現在66歳 子供のころは体がでかくて180cm有り、目立ってしまうので地味にしていました。
ボーイスカウトをやっていて歌を覚えました。(西部劇など)
クラシックが好きになって、レコードを買ってきて聞いたりしました。
ビートルズが中学3年生の時に出てきて世界中を塗り替えて、僕も塗り替えられました。
詩は好きで読んだり書いたりしていました。
高校1年でバンドを作って、歌のないバンドをやっていて、コンテストで賞を貰ったりしました。
一人卒業して、欠員ができて立教にベースのうまい人がいて、それが細野晴臣さんでした。
商学部だったので、違う方向にいきたいと思っていて、大学2年でハッピーエンドが面白くて大学に行かなくなって、作詞家をやるしかないかと思ってこの道に入りました。
筒美京平さんと知り合いになって、ペアになってあっという間に破竹の進撃が始まる訳です。
縁の下の力持ちの様な役割が好きだったので作詞家はそういうところがあるので天職かなと思った。