2015年8月18日火曜日

中川モモコ(千田是也氏長女)   ・二つの国に生きて

中川モモコ(千田是也氏長女)   ・二つの国に生きて
現代演劇をリードした千田是也さんの長女、昭和7年、ドイツ人のイルマさんとの長女として東京に生まれました。
7歳の時に両親は別の道を歩むことになり、イルマさはモモコさんを連れて、ベルリンに戻ります。
その後、モモコさんは第二次世界大戦の烈しい空襲を体験しました。
戦後、帰国した モモコさんは、父親との再会も果たし新たな道を歩み始めます。
激動の日々の思い出をお聞きしました。

私はあまり自分を主張するタイプではなかった。
父に似ているところはのんきでどんなことがあってもくよくよしないところだと思います。
父は俳優、演出家としても活躍して日本の演劇界をリードした人。
父には沢山兄弟がいて、末っ子でもまれて育った。
一番上の兄は才能があり、皆彼を見本にして芸術家になった、踊り、音楽、絵等を勉強して、父は演劇を勉強して役者になった。
私の父は伊藤圀夫 父の長兄 伊藤道郎(国際的な舞踊家) 父の四兄 伊藤熹朔(舞台美術で活躍)
父は友人らと俳優座を作りその代表になった。
1927年~31年までドイツに行って演劇を勉強するが、そこで母と出会った。

希望をもって母は日本についてきたが、政治的に色々動きがあって、左翼演劇活動で間もなく父が追われて、1年後に私が生まれて、母はタイピストの仕事をし始める。
父は逮捕されて獄中での生活を余儀なくされる。
父が自由になった時には私は3歳になっていた。
困ると思って父も仕事を探すがうまくいかなくて、又夢中になって演劇活動を続けているうちに、母は耐えられなくなって、ドイツに帰る準備を始めた。
1939年に私を連れてベルリンに帰りました。
戦争の準備が始まった時期で、秋にドイツ軍がポーランドに侵入して戦争が始まった。
母は離婚して、父が色々私達に残したものを贈ってくれたが、其中に人形があり祖母が大事にしていたもので、戦争が終わって祖母が亡くなる前に母に渡したもので、それを私にくれたものでした。
父から「ベルリン 私は又思う、 東京 貴方は私のことを思う」と人形に書いてあった。
戦後まで父はどうなっているのかわからなかった。

母は仕事があり、祖母がいつも一緒にいてくれて祖母からドイツ語の読み書き、等を教えてもらった。
日本語は話すことが無いので段々忘れてしまった。
母は再婚して近所に住んでいたが、私は学校に通う様になり、段々空襲がはげしくなって、弟が生まれるなかで、弟を乳母車に入れて地下に移動したりした事を覚えている。
叔父さんに連れて行ってもらった時に、バルコニーに出てきたヒットラーをみる機会があった。
子供には戦争の状況については情報入ってこなかったし、周りも子供には聞かせない様にしていた状況だった。
1944年秋 1945年 最後の何ヶ月はとても厳しかった。
家が破壊され、又祖母と私たち家族は一緒に住むようになったが、空襲の時には防空壕に入った。(4~5階建てで厚さが2~3mある地表の防空壕)
ベルリン町は本当に何もないくらいに破壊された。
逃げてゆくときに戦いのさなかに道路を渡らなくてはいけなくなって、大砲の撃つ合間の補給の時に、見計らって道を渡った。

戦争が終わって、周りの人の助けを借りて、ベルリンから大変だったが、ガイドを頼んで夜中にこっそり田舎道を通って西ドイツに渡る事が出来た。
1950年日本のラジオ協会に、父親を探してもらう様に手紙を出した。
日本放送協会から父に私の手紙を渡して、日本放送協会から間もなく手紙が届くでしょうとの手紙が来た。
父から手紙が届いて、今まで何もできなかったから、日本に来て勉強し直したらどうかとの事だった、演劇界で大活躍していたので、一人で日本に来た。(昭和27年)
日本語が全く判らなくて、父に通訳してもらったりした。
今も本は全部ドイツ語です。 ドイツ語は直ぐにスーッと入ってくる、日本語は曖昧です。
時々日本に母を呼んで、日本の親戚、昔の友達も集まって暖かく迎えてくれました。
どちらの国も故郷である様な感じです。
2009年ドイツに行き、今行かないとチャンスが無いと思って、もう一回皆に会いたいと思って、ベルリンに行きました。
ドイツ劇場でアンネ・フランクの記念公演があって、終わって劇場からでて左側に防空壕があって、それが逃げ込んだ防空壕だったことが判った。
敵を作るのは一番良くない様な気がして、皆思いやりをもって生きなくてはいけないなあと思います。