2015年8月16日日曜日

高津一郎(劇団麦の会 元代表)  ・あの日から70回目の夏

高津一郎(劇団麦の会 元代表)  ・あの日から70回目の夏
91歳 終戦を迎えたのは中国南京南西のところです。
その後日本への帰国を待つ間、命じられて演芸会で初めて芝居を手掛けました。
帰国後敗戦のショックで病んでいた高津さんは、演劇とかかわる事で精神的にも立ち治り、家業の本屋を再開します。
横浜のYMCAの演劇研究会で演劇の勉強を始めて、劇団麦の会を立ち上げ、横浜を題材にしたオリジナル作品を数多く手がけてきました。

復員が決まってからは1300人の兵隊を無事に日本に戻すことに集中しました。
11月の末に上海に移動、復員船に乗ったのは3月ですが、それでも早い方です。
その間を何かやりたいという事で、みんな歌謡曲、短歌、俳句などをやるようになる。
ステージを作って、呼び集めると100人位になり、歌謡曲、手踊りなどしたのが始まりで、段々大きくなってきて、演芸会という形で一晩掛かってやり、よその部隊にも動くようになってきた。
中隊長が芝居をやるぞといい始め、高津少尉と通信隊長二人で台本を書けという事になった。
15分ぐらいのストーリーを書いて持って言ったら、駄目と言われて、帰ったらどうなるかを知らせなければだめだという事で、30分ぐらいのものを中隊長が書いて、役者を集めて稽古をして、中隊長が演出して、私らは演出助手みたいなものをさせられて「故郷の春」という題名で、行った。

内容はいきなり復員兵が舞台に出てきて、国の自分の家の前におり、奥さんが出てきてしばらく動けない、見ている1000人の人の自分の姿を見ている様なわけで1分ぐらいすると、二人がワーッと抱き合う、お客さんもワーッと立ちあがって大騒ぎになる。
無事で会えたことを喜びあう世界。 亡くなった父母の墓前で頑張りますという事で生活が始まって、色々あったが、赤ちゃんが生まれて、日本にいる駐留軍がいなくなるぞ、帰るぞという事までやっている。
芝居を通してこういう生活があるという事を見せて教えた。

博多に帰ってきて、横浜に戻ってくるが、焼け跡だらけ(昭和21年3月末)で呆然とした。
心の中に空洞があり、軍務に追われて直すという様な時間が無くて、帰ってきて、我が家に家族がいて落ちついたらばどーっと落ち込んだ、3カ月ぐらい何にも考えられない。
友人も来て励ましてくれたりするが駄目だった。
新劇の合同公演があるので、友人が引っ張って行ってくれて、それを見て段々心が動く様になってきて、浮浪者が人間のイメージを作るところがあって、その中に自分がすぽーっと入って行って、それが凄い刺激になって、回復しないとだめなんだという事が段々思えてきた。
いくつか芝居を見るようになって、段々芝居が面白くなってきて、横浜YMCAの会員募集があって、その中に演劇研究会があって、(労働組合の自立演劇が京浜地帯に150ぐらいできて、レッドパージが始まり組合幹部が追われて自立演劇が衰退する)、リーダーを養成する目的があり、集まったのは23,4歳の兵隊上りの人達、女性は軍需工場で働いている人たち、集まり自体が非常に楽しかった。

俳優座、文学座等の演劇を観に行き、演劇を体感してその後話しあって、演劇論等を読んだりして知識を深めた。
だから始まったら、公演を持とうとの話があったが、その人たちは脱退して、2年ぐらい経ち、左翼演劇的な人、戦後始めた人たちもいて、勢力争いみたいな動きがあった。
(演劇研究会は7年後には麦の会となる。)
太宰治の「春の枯葉」 人間として存在する不安みたいなもの、私たちの中にもあり、これに魅かれて上演したが、100人位のお客さんが来てくれた。
ガリ版で私が台本を書いて、演出もやりました。(軍隊での経験)
その後勉強しようという事で、5年間一幕物をやってゆく様になる。
自分たちで書いたものがあったが、上演しようと言うところまでは行かなかった。
メンバーも増えて(30人弱)、1959年 TVドラマを始めて、どこでもやっていて役者が足りなくなり、横浜のアマチュア演劇に目を付けて、タレントスカウトがきて、結構酷い使われ方をして、それがきっかけで「道化の青春」 一種の人間侮蔑  これをやろうという事になる。
芝居のやりたいこととが一致した。

当時、横浜は62%が占領されていて、駐留軍が一番多くいたのは32万人、そんな街だった。
そのことを踏まえて「荒地」という題名で横浜の悲劇を芝居にした。
占領政策に対する、60年安保に対するでもを扱ったもの、70年安保に向かう姿勢のもの「雨の中へ」、もそういう意図を込めてやったわけです。
大人たちの横暴に対する若者たちの戦いみたいな事を二つやっている。
ミュージカル仕立てで、踊りを含めた芝居を作り上げた。(深刻な問題なので柔らかく仕立てる)
今年の出し物、「夏の日の陽炎」 出演は孫の世代
兵隊検査を判っていなかったが、其れを理解しなければ戦争に行くという事が見えてこない。
19歳で兵隊検査を受けなければいけなくて、入隊しろとの連絡があり、完全に軍の掌握の中にはいってしまう、志願もしないのに軍隊に持って行かれてしまう。

「鳥になった少年」 パプアニューギニアに軍隊をおくりこんだ時には、敗戦が目に見えていたのにもかかわらず、16万7000人の兵隊を送り込む。
弾薬の補給、食糧の補給もなくて、74%の人が戦死するが、そのことを問題にしたくて「鳥になった少年」を書いたが、調べてゆくと伝えなければいけない問題がたくさんある。
平和はいいが油断したら、いつひっくり返されるか判らない。