白井久夫(ジャーナリスト) ・残された「空襲警報」~録音盤は語る~
神戸市東灘区に住んでいた当時中学生の溝口重夫さんが録音したもの。
空襲警報の録音。
白井さんは昭和8年生まれ82歳、自身も横浜で空襲に遭う経験をする。
戦後NHKに入り、広島の原爆投下直後に大阪局を呼び続ける声がラジオから流れたことを追って、番組を制作し、「幻の声NHK広島8月6日」という本をまとめました。
戦時中の放送の仕組みについて取材を重ねてきた白井さんは当時の放送が録音され残っていたことに驚いたと言います。
中部軍情報、何時何分、どこの地点でどこに向かっているか入っている。
昭和20年2月4日昼の米軍機による神戸への空襲と、2月18日夜 大阪へ1機が飛来した際にそれぞれラジオが伝えた中部軍司令部発令の警報放送。
当時の録音
「敵の編隊11機が14時10分潮岬に到達し、北に進んでいます。その先頭は阪神面に向かうとすれば14時20分ごろ、名古屋方面に向かうものとすれば14時25分ごろ到達するものと思われます。」
「14時25分ごろ、熊野灘を東北に進んでいた敵の編隊は、尾鷲付近から奈良県下にはいる模様で有ります。ただいま時刻は14時31分であります」
「京都の高射砲が急制射を行いますから注意してください」
等々。
高野山から北に向かう編隊は大阪平野上空を通過、神戸に目標を定める。その様子の警戒警報
神戸の空襲を終えた米軍機は南に去ってゆく。
昭和19年11月1日から本土へのB29の空襲が始まるが、その前その年の6月16日にB29が大量にやってきて、八幡の工場群を攻撃するが警戒警報、空襲警報を発令するが、解除までの時間があり、不安をおこさせる可能性があるという事で、解除までの間に情報放送を入れるようにする。
軍管区 東部軍管区(東京)、中部軍管区(大阪)、 西部軍管区(福岡) 後に北部軍管区 東北軍管区、東海軍管区
四国軍管区、中国軍管区という風に細分化される。
驚きは形を守って情報を出していた事と、その情報の内容が本当にアメリカ側の攻撃を十分に伝えるものであったのかどうかという事、どこの目的に向かってどういう風に編隊が指向したか、そいうものが読み取れない単なる情報だった。
被害についての新聞報道も僅少であるとかぼかしていた。
昭和20年2月4日昼の米軍機による神戸への空襲が都市への本格的な焼夷爆弾投下だった。
東京大空襲、夜中の零時8分 空襲警報の出ないまま下町に落ちた。(警報は零時15分に出た)
夜中に空襲警報を出すと、天皇に色々心配を掛けるという事で出し遅れる。(戦後判明した事)
東京、大阪、名古屋等大都市を焼き尽くす。
6月中旬からは中小都市が狙われる。(夜間の焼夷弾空襲)
6月17日 鹿児島、大牟田、浜松、四日市
6月19日 豊橋、福岡、静岡
6月28日 佐世保、門司、延岡、岡山
岡山への警戒警報は出されなかった。
8月6日 広島
この日未明マリアナ諸島テニアンの基地を飛び立ったB29エノラゲイは目標の広島上空に接近する。
白井さんはあの朝爆心地から1.3kmの距離に在った放送局の技術職員寺川政雄さんの証言を
戦後30年目の番組制作の折に取材し、聞きとっていました。
彼は前の晩から警報を出す係として、軍管区司令部につめていた。
疲れ果てて帰ってきて、普通休むが、そのままスタジオの前の部屋にいた。
突然外でB29が飛んでいると叫ぶ声が聞こえて、彼はあわてて警報を出さないといけないと、軍管区司令部に電話をする、放送所にこれから警報が行くという事を連絡する。
その時にバーンと落ちて、放送局、放送所もやられる。
近隣の局に連絡するが通じなかった。
課長が怪我をしているので抱えて各局に電話連絡するが、その声が放送の電波に乗った為に其れを私どもは「幻の声」という番組を作った。
怪我をした課長を抱えて、一緒に逃げだそうとして玄関のところで、血だらけの赤ん坊が這いあがってきた、その後ろに今朝放送局にラジオの修理に来て並んでいた人達が皆死んでしまっていた。
這いあがってきた赤ちゃんが如何にも哀れで抱上げて何とかしたいが、ラジオは持ってるし、課長を抱えているので、母親らしい人のところにおいて、放送所に逃げるがそれが一生苦になって、放送局の玄関が彼にとっては物凄い苦痛になる。
広島放送局の技術職員寺川政雄さんの証言に出会ったのは40年前、1975年春。
ドキュメンタリー番組にまとめました。
戦争のない社会を築きたいと歩み出す。
横浜に5月29日朝突然空襲警報が出て、8時20分 物凄い数の飛行機が飛んできて、一斉に焼夷弾が落とされて、警報があっても何も役に立たない。
信濃毎日新聞社 桐生 悠々 社説「関東防空大演習を嗤ふ」 1933年(昭和8年)8月11日 関東一帯で行われた防空演習を批判、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化、航空戦は...空撃したものの勝であり空撃されたものの負であると、信州郷軍同志会が信濃毎日新聞の不買運動を展開、そのため、桐生は謹慎の後、社を去ることになった。