尾田 悟(ジャズプレイヤー) ・海軍軍楽隊員、ジャズに生きた戦後
88歳(来月) 現役のジャズのテナーサックス奏者、昭和2年福岡県生まれ。
昭和18年中学生の時に海軍軍楽隊の募集に合格し、横須賀の軍楽隊で猛訓練を受けます。
卒業後、戦艦武蔵に乗り組む予定だったが、変更になり戦死をまぬかれます。
軍楽隊の仲間の多くは失いました。
戦後、福岡のアメリカ軍の将校クラブでジャズを演奏するようになりますが、後に東京に出てきて本格的にジャズの道を目指します。
1985年、50歳代半ばの尾田さんは初めてアメリカに渡って、モントレージャズフェスティバルに出演します。
ここで出会ったピアノのハンク・ジョーンズに認められて、以後共演を重ね、海外での活動の場を広げていきます。
ディック・ミネさんとはつきあいがあり、一緒に公演をしたりしました。
初めてサックスを吹いたのは軍隊の時、これをやれと命令された。
福岡県だが大分県立中津中学校(名門)に行くが、いじめにあった。(荒れていた)
逃げ場所が自宅の近くの幼稚園で、幼稚園の先生にオルガンを教えてもらって、その音に感動した。
海軍軍楽隊の募集があり、全国100人の中の募集に合格、其中から90人が選ばれた。
横須賀海兵隊に入り、軍楽隊で学校があり練習生が1年間行うが、それが凄かった。(15歳)
合同演奏するが、できないと教官が怒られるので、教官が必死なので私たちは命がけになるが、其厳しさがあったからウイリアムテル序曲を1週間でやり、カルメン等クラシックを毎週3曲、年間140~150曲やっている。
新兵としての訓練も行った。
南西方面艦隊があり、戦艦武蔵に乗る事になったはずだったが、水泳の部署ごとの大会があり、昭和19年9月での遠泳大会でその選手になり、武蔵には乗る事が無かった。
サイパンが落ちてから空襲が来る様になるが、電波はアメリカのものになる。
或る中尉がラジオをかけて、これがジャズだと教えてくれたが、吃驚した。
クラシックではやってはいけないことを、ジャズではやっていた。
九州に帰ってきてサラリーマンになるが詰まらなくて1カ月で辞めることになる。
進駐軍に将校クラブができて、そこで演奏するようになるが、当時45円だった月給の時に1000円貰っていたが、全部使っていた。
先輩から東京に来るように言われて、辞めるのが大変で、ドロンした。
東京では3~6カ月で契約して、銀座等で廻って歩いたが、失業する事はなかった。
契約の条件も良くなり技術も上げることができた。
昭和30年代本格的なジャズブームになるが、血を吐いてしまって、結核になる。
「血は後から作れる、出すだけ出せそうしないと、そこで固っちゃう」 その一言が物凄く胸に来た。
血を止めてしまうと固まってしまって息ができなくなる。
名前が知れ渡ってきていて、出演依頼が次から次にあり、血を吐いてしまって其繰り返しで、
そーっと吹いていましたが、そこで出てきた名前が「四畳半のテナー」(力いっぱい吹けない)。
私が居たバンドで歌手をしていた人がマーサ三宅さん、当時大橋巨泉さんの奥さんで、つきあいがあり、それで彼が評価してくれた。
「日本のレスター・ヤング」という大橋巨泉さんの批評がその後ずーっと尾田さんについて回る。
結核の方も何となくおさまってくる。
1985年にアメリカのモントレージャズフェスティバルに出演する事になる。
プレイヤーが10人位の著名人、観客は1万人以上いた。
ピアノのハンク・ジョーンズと出会い、お前はいい奴だかっこいい、俺と一緒にやるかと言われて、一緒にレコーディングしたいと言われて、吃驚、上の空状態だった。
ハンク・ジョーンズとのレコーディングをして、その後ずーと付き合う様になる。(最初は「ラバーマン」)
ハンク・ジョーンズは人格者です、あんな人はいるのかなと思ってしまう。
以後アメリカ、ヨーロッパでの演奏活動を始める。
オスカー・ピーターソン等も私の演奏しているステージに、上がってきて自分も演奏するといってやったりしました。
終戦の翌日8月16日に、特殊潜航艇(二人乗り)が出て行ったが、俺たち出ていくから、軍艦マーチを吹いてくれと言われて、軍艦マーチを吹いたが、吹くのは怖くてそれ以来吹いていない。
演奏活動は今後も続けていくが、大腸がんも動脈瘤(写真を見せられて絶望的であったが)も克服してきた。