2015年8月26日水曜日

熊谷晋一郎(脳性まひの小児科医) ・誰もが“生きていける”社会を目指して(1)

熊谷晋一郎(脳性まひの小児科医・東大准教授) ・誰もが“生きていける”社会を目指して(1)
1977年山口県生まれ 38歳 生まれた直後の高熱などが原因で、脳性まひとなり手足が不自由になりました。
健常者に近い動きができるように物ごころつく前からあざができるほどの厳しいリハビリを受けますが、成長とともに除々にリハビリを止め自分らしい暮らし方を模索し始めました。
障害について深く学びたいと医学部に進学、東京大学を卒業後は小児科医として診療にあたりながら、障害と社会の関係を研究しています。

トイレ、食事等はサポートが必要なので長時間移動の時にはサポートが一人つきます。
車椅子を使う様になると、立てなくなるという風に間違った思い込みがあり、2000年以降に段々違う事が判ってきたが、当時は皆が信じていて車椅子を使わない様な指導がなされていた。(腹這いで床を移動、或いは乳母車みたいなものを利用)
中学生から車椅子を使う様になった。
生まれて3日目に高熱が出て、そのまま意識を失って、救急救命室に入って、2カ月後退院時には脳性まひの障害が残っていた。(感染症、髄膜炎等のトラブルがあったのではないか)
脳のどこかに損傷があり、その場所に依って表れ方が違って、私の場合は運動野という場所で手足を動かす指令をする場所。
特徴は首から下が緊張している状態(寒くは無いが、寒い時に体がこわばる様な状態)
今のリハビリはその人らしい生活のスタイルを健常者と同じでなくていいから、実現しようと言うものだが、当時は健常者にしてしまおうという様な目標を打ち立てがちな時代だった。(90%治るという様な文献が出ていた時代だった。)

実現しない時に、努力が足りないのではないかという風に自分を責めるし、親も巻き込まれてゆく。
1時間半ぐらいの訓練を、母と一緒に毎日4~5回ぐらいするので5~6時間になっていた。
嫌だけれどやる習慣がついたが、段々とこの習慣は何でやってるんだろうと気付く事があった。
3歳ぐらいの時に、意を決した表情でリハビリは止めたいと母に言ったそうです、母は一瞬ひるんだがねじ伏せて母は続けることを選んだが、私の顔つきがぱっと変わって目線が宙を向いたそうです。
この児は何も言っても駄目だと、あきらめの表情をしたのを今でも焼きついていると、最近母が言っていました。(ここ数年当時の両親の思いを聞く機会がある。)
修羅場の様なリハビリの風景なので、祖母などはそんなにやらなくていいのではないかといさめていたが、当時の母はやれば治るのにやらないなんて考えられないと思って、リハビリへの情熱は揺るがなかった。
憎いと言う気持ちと同時にここまですべてをなげうって、自分のためにやってくれている事は、子供心に判るので、最大の財産として親から貰っていて、どこかしら屈託なく信じられる自分のキャラクターがあるとすれば、それは親からもらっているものだろうと思う。

70年代は治るということが信じられていたが、80年代からあれは嘘でしたという論文が書かれるようになり、実際に治っていない自分があり、不安になって行き、親が死んだ後自分はどうなるのだろうと考えて、親の介護が無くなることで自分も死ぬのではないかと思う様になる。(小学校低学年の頃)
夜な夜な怖くて泣くというのがしばらく続きました。
中学のころに、父が市役所の職員で、障害をもった担当の部署だった。
父を介して大人の障害の人達との出会う機会ができてきたのが中学生の頃だった。
障害者のまま普通に生活している光景を目の当たりにした。
感じた希望は凄く大きなもので、健常者にならなくても生きていけるらしいと、非常に安心感を覚えた。
そこから早く先輩たちの様な暮らしをしたいと思う様になった。
中学生のころから、親がいない状況で生活がしたいと思う様になった
その欲望が高まってゆき、大学では一人暮らしを始める。(東京大学)
引っ越しは親が手伝ってくれたが、当時販売を開始した携帯電話を枕元に置いてゴロンと寝転んだのがとっても新鮮だった。
トイレ、食事、その他の欲求不満を経験できることが新鮮だった。(それまで全て親に頼っていた)
欲求を絞ってゆくと ①トイレ ②ご飯、③お風呂、④外出 
優先度を考えると ①トイレ  トイレを解決すれば何とかなるかもしれないと、課題が明確になって行った。

トイレまでの距離の実感、リハビリの膝たちの実感、便器への座り方など、限界まで体を動かしてみることで腰のひねり具合、手の動き、足の踏ん張りなど新たな発見があった。
失禁をしたりしながら、目標を達成しようとするが達成できなかったりして、その失敗にも快楽を感じる様なこともあって、じんわりと来るような喜びみたいなものを感じたりした。
自分の体が社会的な規範に対してまだ足りないのではないの、というメッセージが生理的な欲求の方から知らせてくれている、突き上げてくる、そこに快楽がある。
失敗があるお陰でそれに突き動かされるように、トイレを改造してトイレがバリアーフリーになって行った。
社会の形と自分の形が歩み寄ってゆく様な、その楽しさです。(一人暮らしで初めて気が付く)
失禁をした時に、見ず知らずの人がどの程度サポートしてくれるのかに関心をもった。
トイレに行きたいと思った時に声を懸けた時、相手の変化があり、たじろぐ人と前のめりになる人がいて、そういう人は安全だと思うしそういう人に声をかける、相手が一人だと断られることが多いのでカップル、複数のグループの人たちに声をかける。

集団でいる人の方が声をかけやすい。
介助者との関係においては、言葉の開発をして行かないといけない。
介助者の癖、限界を考えて、相手に指示を出すにはどうしたら伝わるのか、安全のためにいつも考えている。
介助者と阿吽の呼吸(親と同じように)の距離ではなく、言語化すると相手との間に距離が開いてそれがちょうどいいと思っている。
山ほど助けてくれる人がいるという事を知った、社会は案外優しい場所だと身を以て知ることができた。
最近どんな状態になっても生きていけると思うようになった。
8歳に思っていた、親が死んだ後自分はどうなるのだろうという不安な思いの明確な解答が得られた、それが私にとっての一番の財産です。