2015年8月6日木曜日

津田久美子(被爆体験伝承者)    ・被爆者に代わって語り継ぐ

津田久美子(被爆体験伝承者)   ・被爆者に代わって語り継ぐ
被爆者の高齢化が進み、被爆体験を語る直接語る人が少なくなってきています。
広島市では、被爆者から体験や思いを引き継ぎ被爆者に代わって語り継ぐ、被爆体験伝承者の養成を3年前から進めてきました。
伝承者は被爆者から体験を聞いたうえで、話し方の実習をうけるなど3年間の研修を受けたうえで広島市から認定を受けます。
50人いる伝承者の一人、津田さんは58歳 、母が学徒動員で被爆した被爆二世の主婦です。
津田さんが被爆体験伝承者になるまで、被爆二世として被爆体験をどのように伝えようとしているのか伺いました。

寺前妙子さんの被爆体験について話します。(一部)
「現在85歳の寺前さんは、当時中学校の3年生、15歳でした。
学徒動員と言って、戦時中は中学校以上の生徒や学生が戦争に関する仕事に駆り出されていました。
寺前さんもその中の一人で電話の交換手として働いていました。
爆心地から540mの距離です。
6日の朝仕事の交代目で2階の廊下に整列していたときに原爆が落とされました。
フラッシュをたいたようにパッと光り輝き、その後真っ暗闇と成ると同時にドーンと地を揺り動かすような大きな音がしてガラガラと建物が崩れる音があちこちから聞こえました。
寺前さんは建物の下敷きになりました。
最初は一生懸命身体を動かしても、自由にならず、必死で身体を動かしているうちに自由な身になる事が出来ました。」

平和記念公園の中に在る資料館で行っています。
最近は外国人の方もいらっしゃっています。
感想や質問が色々あります。
最初は体験したことが無いので語れるか不安だったが、始めて見ると皆さんが一生懸命聞いてくれますし、伝えなければと言う使命感が芽生えてきて一生懸命やっている状況です。
母は被爆していて、父は8月6日以降に広島市に入っていて被爆しています。(私は被爆二世)
私は大学では福祉関係の事を勉強しました。
仕事は広島県の歴史を編纂する県の機関で3年間働きました。
結婚して3人子供がいます。2人はすでに結婚、父は去年亡くなりました。
母からはほとんど被爆の事は話は聞いていません。
母は姉二人を原爆で亡くしており、嫌な思い出を我が子には話したくなかったのではないでしょうか。(被爆体験の話をするように進めたこともあるが、駄目でした)
最近は少しずつ話をするようになりました。

「母は学徒動員先の印刷工場の朝礼中に被爆しました。
建物の影で有った為か怪我はしませんでした。
先生の指示で郊外の山へゆき小屋へ避難しました。
落ちつかず友達と下に降りるのですが、爆心地から800mで建物疎開作業していた1年生が避難してくる光景に出会います。
皆真黒に焼けた身体で這うようにして歩いてきました。
その時の光景が忘れられないそうです。
翌日自宅に帰る時にほとんど裸で皮膚をたらして歩いている人を見たり、倒れている人から足を引っ張られて水を下さいと言われます。
自宅の建物は焼けおち家族の姿もなく、避難所に行きます。
8日から姉を探しますが、その遺体は焼かれた後で骨も拾うことができなかった。
1週間後父の実家がある山口に家族4人で行くが、もう一人の姉は頭痛倦怠感を訴え、8月末床につき歯ぐきの出血脱毛などの症状が加わり、苦しみ9月7日早朝、呼吸困難になり息を引き取りました。」

被爆体験された方から直接聞ける最後のチャンスなので、聞いていきたいと思います。
母の姉たちに背中を押されるようにして、被爆体験伝承者に応募しました。
1年目は被爆の実相、核の世界情勢、広島市の歴史的状況。
被爆体験された方23人の方の話を一人ひとりお聞きする。
2年目はどの方の被爆体験を証言するか決めて、講話文を考えました。
寺前さんは被爆者になって、負傷して運ばれた時に、学徒動員で建物疎開の方々が「お母さん」と言って亡くなってゆく声を聞いていて、その時の声を皆さんに伝えたいという事だったので、私もそれを引き継いでお話したいと思いました。
母と共通する部分が多かった。
寺前さんは左目を失ったが、自分でも判らないぐらいの状況で、痛みも感じることもなく、パニック状態だった。
3か月後にやっと自分で顔を見たいという事で、見て、左目が無くなり、鼻の上あたりが切り裂かれた状態でショックを受けて、死んだ方が良かったというほど思われたそうです。

3年目は講話の実習。
アナウンサーに来ていただいて、専門的なことを教えてもらい、体験証言者の方々の前で話をして反省、感想をいただきました。
広島市から伝承者としての認定を受ける。(50名)
30~70歳台までいますが、被爆二世は半分ぐらいです。
寺前さんは学徒動員を救済するために、県や国会に出向いて、処遇をよくするために頑張られました。
寺前さんは妹も亡くしており、若い方々が大勢戦争で亡くしているので、二度と戦争はいけない、原爆はいけないと、私たちに訴えています。

戦後70年被爆者も高齢化が進んで、語りたいけど語れない部分があるので、思いを引き継いでやって行きたいと思います。
今後の目標として、
①小さな子どもたちにも被爆体験を伝えていきたいと思います。
絵本を見せながら、戦争はいけない、平和は大切なことなんだと判ってもらえればいいなと思います。
②外国人が多く来ているので、英語で語れることができたらいいと思っています。
英語の文章にして語るという事は難しいが、一つの目標にして頑張りたいと思います。
③戦争の事、平和の事について改めて考えて頂きたいと思います。
④何かどんな小さなことでもいいから、行動をしてもらえたらいいと思います。
 (平和について話をする、本を読む、映画を見る、そういう事からきっかけを掴んで、考えて貰えればいいと思います。)

「その後、寺前さんは重症患者として瀬戸内海に浮かぶ金輪島に船で運ばれます。 
その時今まで聞いた事のない様な悲しくつらい声を耳にします。
「お母さん」「お母ちゃん」という動員学徒の叫びです。
今の声はどうした声ですかと尋ねると、「むごいことよのう、中学生も女学生も「お母さん」と云いながら死んでいきよるんだ」との事でした。
金輪島に着いてからもやはり「お母さん」「お母ちゃん」と叫びは続き、寺前さんの耳にはその時の悲痛な声が今も深く残っているという事です。
そして今日まで証言を続けてこられたのは、生き残った者のひとりとして、あの時の声を一人でも多くの人に伝えなければという想いがあるからなのです。」