2015年8月30日日曜日

井上八千代(井上流 五世家元)  ・京舞・井上流の初春(H27.1.1放送)

井上八千代(井上流 五世家元)  ・京舞・井上流の初春(H27.1.1放送)
重要無形文化財保持者に認定されました。 
祖母の四世 井上八千代さん 父観世流能楽師 片山幽雪さんに続いての3代続いての人間国宝になります。
井上流は日本舞踊の流派の一つで、200年の歴史があり、京都で発展したところから京舞いとも呼ばれています。
明治時代 三世 井上八千代の時に京都祇園の都踊の振付を担当してから広く知られるようになりました。
井上八千代さんは四世井上八千代の孫にあたります。
2歳の時から舞いの稽古を始め、14歳で名取りに、20歳で祇園の舞踊教師になり、2000年に5代目井上八千代を襲名しました。
井上八千代の名跡を継いでから、丸15年になりますが、伝統を守りつつ、新しい芸風を確立しようと日夜研さんに励んでいます。

元日は普通にお盃ごとをしてお雑煮を頂きますが、近年は、東京に家があるので、関東風のお雑煮を頂きます。
2日は舞い初めをすることになっており、どこにいようが舞い初めをするようになっている。
12月13日が京、大坂の習慣で、お正月の事をその日から始める。(すす払いなど含め)
祇園の芸舞妓さんも鏡餅を持って、ご挨拶に見えて「おめでとうさんどす、どうぞ相変りませず、よろしゅうお頼み申します」と挨拶します。
名取りは稽古場の舞台のひな壇に鏡餅を並べます。
挨拶に来られた祇園の芸舞妓さんに対してお返しに扇を差し上げます。
正月のご挨拶は、祇園の始業式があり7日に行う。
井上八千代の名跡を継いでから、丸15年になり、早くて吃驚します。
京舞いはゆっくりした地味な舞いで、今の時代のテンポからすると、緩やか過ぎると言う事はあると思いますが、良さを考え直して、どこかに今のものを見つけていかないといけないと思っている。

名跡を継ぐ10年前から先代から継いでくれるようにいわれていた。
2000年には95歳にっなっていたので、祖母がどうしても継いでくれと言ってきて、主人に向かって直談判をして、五世を引き受けることになった。
名跡を継いでから10年過ぎから、周りの空気となじむ、心の優しさみたいなものを考えながら舞を舞わないと人になれないなという気持ちがわいてきて、還暦を過ぎて生まれ変わって子供の様な気持で舞えるようにと思っています。
初代 二世はあまりよく判っていない、三世井上八千代が語ったこと、作った舞い、振りから判っていることが井上流の歴史としての初世、二世の事なんです。
初世は本名が井上で舞をしていて、 御所務めをして色々学んで、宿下がりをしてから井上流の舞を始めた。

子供がいなかったので姪を養女にして、二世八千代が舞台に掛けられる様な舞を工夫して作ったと言われ、能、義太夫等を参考にして、華やかなものもこしらえた。
三世八千代 片山晋三と結婚した人が井上春子(三世八千代)。
明治維新以降京都を華やかにしようと、博覧会を考案して、芸子をレビュー式に舞台に上げて見るものを作りたいという発想で、振付の白羽の矢が立ったのが三世八千代でした。
それから祇園との結びつきが大きくなりました。
「みやこ踊り」と名付けたのが三世でした。
それまで女性が舞台で踊る事は興行としては無かったらしい。
四世は三世が70歳ぐらいになって入門、これなら後をさせられると言う事で家に留まって四世となった。(私の祖母)
四世には男の子しかいなくて、子供達は能楽師になり、孫の私が継ぐことになる。

祖母の50~60歳代の盛りの歳は技術的にもきらびやかな大変技術に秀でた人でした。
70,80,90歳と段々優しいなと、90歳代の頃はただあるがままにそこに人があると言う事を見せてくれたなあという気持ちでいます。
四世の芸風は大地に根の生えたような力強さと、生まれたての瑞々しさを併せ持つという様な人だったと思います。
小学校に上がる前、三世の追善会、お客様に見せる会に出してもらったが、突然怖くなった。(物凄く怒られた)
それからは怒られ通しでした。
井上流の基本姿勢は腰を落とす、かかとを上げる。
言葉も発しないので、お客様のイメージに訴えることが大きいので、お客様との緊密な空気感みたいなものが必要とされるのが舞いの世界かと思います。

「虫の音」 能楽の松虫で男の舞いですが、祖母が何度も作りなおしながら自分が舞ってきた。
なにごとにも縛られずに、舞を舞って人がある事で命の尊さを見せてくれたなあと言うのが私の見方です。
後継者には娘がいて、先ずは自分が受け継いだものを伝えたい、周りの人の舞台を観ることによって吸収して自分が何をしたいかという事を自分自身が考えながら舞を舞ってほしいと願っています。