長谷川裕子(映画監督) ・映画「いきたひ~家族で看取る」のこころ
フリーのアナウンサー長谷川さん51歳は2年がかりで準備 して来た映画「いきたひ~家族で看取る」を今年完成させ、全国各地の自治体や介護施設に呼び掛けて順次公開を続け多くの方に感銘を与えています。
長谷川さんは6年前最愛のご主人当時47歳を癌でなくしました。
その時家族とともに自宅で夫を看取るまでの介護記録をビデオ映像にして保存していました。
ご主人を亡くした後、死についてのさまざまな事実、人の思いや経験を知り、死について家族のきずなについて、真剣に考えている人にたくさん会いました。
その時、看取り師柴田久美子さんの存在を知りました。
看取り師とは余命宣告を受けた人の納館までの看取りを心の面から支援する職業です。
多くの死に行く人の姿を見続けた柴田さんは、ご主人の映像を柱に看取りの映画を造りなさいと後押しし、製作に協力してくれました。
映画の中で長谷川さんは死について多くの言葉を伝えています。
「いきたひ~家族で看取る」 生きるという漢字「生」の下に カタカナの「タ」と「ヒ」を書くと、生と死の合体文字になるので、それで私はひらがなで「いきたひ」としました。
上映するたびに再上映が決まって、全国で200人位から20人位のミニシアター迄含めて、上映しています。
映画を見ながら自分のこととしてみているので、腑に落ちるという感じです。
余命宣告された後で、夫は薬学博士だったので、末期患者を何人も生還されたのを見ていたので、主人が余命宣告された後でも、この人なら絶対生還すると思って、治って行くであろうと信じて、癌の様子を撮影していた。
自宅で亡くなったので見直す機会はなかったが、お蔵入りしてみない様にするか、公開して死とは何かを伝えるドキュメンタリーにするか、子供達4人と相談した。
一人を皆で見送ることが自宅で出来たので、家族のきずなが深まったと思います。
生きている時は顔を合わせていると言葉のすれ違い間違いがあるが、遺影に向かって語りかけることが多くなったので、物言わぬ遺影に向かって話していると、通じ合って行く様な信頼関係が深まっていく様な感覚、いると思えばいるんだなあという感覚になりました。
病院は治すところで、死に場所ではないので、治らない人を外に出す傾向があるが、その器として介護施設の数が足りない、スタッフも足りないし、自宅では面倒が見切れないとか、死に場所難民が47万人、2025年問題、もうすぐなので、死を目の当たりにして人はどう受け止めるのかとか、他人事ではないと思う。
看取り師との出会いがあった。
死んでない人を看取る人がいるという事で柴田さんに会いに行った。
現在69名の方が弟子というか職業として外に出て行ってます。(看護士さんだった人が多い)
余命宣告をされた人と家族との契約で、納棺までのケアと家族のフォローアップをしている。
柴田さんは20数年前から行っている。
柴田さんを映像化したいと思って撮影した。
看取った人々もインタビューして、映画にでていただいた。
プライベートな映像なので、公開していいかどうか考えたが、柴田さんから助言をいただき、自分の体験談も入れました。
癌の闘病生活も写しているので、見ている方も吃驚するシーン(出血シーン等)もある。
映像製作の経験はまったくなかったが、思いだけで一人でやってきた。(構成、脚本、音楽、語り、撮影、編集迄独りで行う)
兎に角ありのままを語ってもらいたいし、写しだしたいと思ったので荒探しをしたら一杯あります。
集めたものを構成しなければならず、随分悩みました。(一人一人にドラマがあるので)
死を映像化するのは難しい、悲しくて苦しいものであるならば、人生そのものが苦しくて悲しい最後に向かってゆく事になるので、いかに死を明るく前向きに身近なものとして、怖くないものとして感じてもらうにはどうしたらいいか、全体を明るくするために自然の描写(空、花、蝶とか)を多くしたり、生きることの美しさ、耐えることの美しさを表したいと思っていた。
人形作家の安部朱美さん (1912年3月19日 明日への言葉 放送)
昭和の時代を描いた人形の写真集を見た時にあまりにも美しくて、人形に語らせたいと思った。
私の代弁してくれそうな人形を選んで撮影しました。(色のついていない白い人形たち)
冒頭の人形のシーンで嗚咽する人もいます、何かと自分を重ね合わせることがあるのでは。
人生の完結シーンは決して悲しいものとか苦しいものではなくて、人の人生のラストシーンに寄り添う事でその人からいろんなものを受け取るとっても大事なシーンなので、是非怖がらずに逝く人にちゃんと触れてあげて、看取ることの尊さをすべての人が知ったならば、世界はきっと大きく変わるだろうと思います。
見つめる、寄り添う事で、残された人は生きることを学んで行くだろうと思います。
柴田さん人は死んでどこに行くかというと大事な人の体内に帰るという、考え方で、主人は私の体内に入ってきたと感じます。(普遍的なものだと思います)
2025年問題 死に場所が無い。
独居老人の孤独死、孤立死が当たり前の時代になった時に、延命をすることが大事なことではなくて、寄り添う事、大丈夫だよと言って終えられたらいいと思います。
どういう終わり方をしたいのかという事を描く事は縁起でもないという事ではなくて、自分の中で決めてそこに向かっていく方が無駄のない人生ではないかと思います。
最期を自宅で迎えたい人が7割いるが、(厚生労働省調査)実際は病院、介護施設で8割で亡くなっている。
自宅で最後まで食べて笑って五感をフル活動して終えられたら、ベストなのではないかと思うので、そのために看取り師さんは大切ではないかと思う。
救急車を呼ばないシーンがあって、それと同じシーンを経験した人がいて、それを映画を観て号泣して、私は救われましたと言ってくださった人がいた。(自宅で看取れた)
ともに生きている様な気がして、私、そして子供も主人が生きていた時よりも近い様な気がする。
映画を作ると言ったら子供達は、かっこいいねと言ってくれて、協力的でした。