金田茉莉(戦争孤児の会 代表) ・戦後70年、戦争孤児が歩んだ苦難の道
1935年 昭和10年東京都浅草生まれ 父親が3歳の時に病気で亡くなり、以後母親の手で3姉妹の一人として育てられました。
1944年から学童疎開が始まり、小学3年生だった金田さんは家族と離れ宮城県白石市に集団疎開しました。
1945年3月10日東京大空襲で母と姉妹を失い、孤児となりました。
そのごは戦争孤児というハンディーを背負いながら様々な仕事をして来て、結婚し、子育てで追われる40年間孤児であることを明かしませんでしたが、急病にかかりながらも、奇跡的に一命を取り留めた事を機に封印を解き、自らの体験を本にし、出版しました。
戦争孤児の会に入り、集団疎開、空襲の実態、を調査し、孤児たちがたどった過酷な人生の記録を後世に残そうと努めています。
戦争孤児は過去の問題ではなく、現在、未来につながる問題でもあるとも言います。
大学で学生たちに空襲や戦争孤児の話をする機会がある。
立教大学、埼玉大学等に話をしてきました。
非常に熱心に聞いていただいて、埼玉大学では後世に語り継いでいこうと語り部活動(紙芝居など)をしています。
父が脳溢血で急死して母が3姉妹を育ててくれました。
父は卸業をやっていた、3人位を雇っていたが、兵隊にとられた。
小学3年生で親と離れて集団疎開し、旅館内で勉強から寝ることまでそこで行っていました。
6年生が卒業で帰る事になり、母が女ばかりだから大阪の郊外に疎開しますという事で先生にお願いした後で、6年生と一緒に帰ってきた。
3月9日夜行列車に乗って、10日の朝に上野駅に着いた。
その時 一面の焼け野原になってしまっていて、富士小学校は焼けて死体の山だという。
浅草小学校は奇跡的に焼けのこっていて、そこへ行きました。
非難している人たちがすすで真っ黒になっていて、焼け焦げて、目がこの世の人ではない様な宙に浮いた虚無の目をしていた。
学童疎開から帰って来たよ、という声にその人たちは動き出して、皆我が子と抱き合ってあっちでもこっちでも泣き崩れてゆく。
母に抱き締めてもらいたくて、探すが、どこにもいなかった。
叔父が来てくれて、先に西新井に逃げているかもしれないという事で、浅草から歩いたが、その途中に黒焦げの死体が一杯だった。
7月に疎開先の兵庫県にいっていたが、6月に隅田川から死体が見つかったという知らせを受けて、(母と姉)、妹はいまだに行方不明です。
昭和20年は親戚をあちこち転々とした。(親と一緒に死んで呉れたらよかったのにとか言われた)
針のむしろに座っている様な辛い毎日だった。
戦争が終わった時から、人間の心が壊された、戦後の方がひどかった。
戦争孤児をかってに利用とする人達が出てくる。(クレームを付ける人がいなくて人身売買とか)
母が見つかった時に貯金通帳が見つかり、それで高校を卒業して、上京する。
布団をもって行かないと雇ってくれず、何もないので、住み込みで布団なしで行けるところを探して、場末の飲み屋、汚い仕事するところに安い賃金で働く事になる。
戦争孤児は差別されてしまうので、40年間孤児であることを隠していた。
49歳の時に、急病になり、(胆石が胆嚢に詰まる 一日遅れると生命がなかったかもしれないと言われた)七転八倒の苦しみを味わう。
手術して、それから人生観が変わって、母に報告しておかないと「母にささげる鎮魂記」という自分史を書いて、それを出版しました。
学童疎開研究する会に本を見た人から誘われて、孤児のことを知った。
「夜空のお星様」という子供向けの本を出したが、70人位の人に本を送って、必死になって孤児の人たちを探し、40人の人たちとコンタクトをとることができた。
アンケートを送ったが、自分のことをさらけ出すのが嫌という事で、物凄い拒絶反応だった。
何とか21人からはアンケートの解答があった。
戦争孤児の人数は12万3511人ですが、1948年に厚生省が占領軍に命令されて仕方なく調査したもので、公表していない。
1946年8月23日に第90回帝国議会で、餓死したり、戦争孤児はどうなっているか、国会議員が質問しているが、答弁は戦争孤児は3000人、1500人は親戚に預けられ、1500人は養護施設に保護されているという答弁だった。
2年8カ月後に調査したら12万3511人だった。
公表されず、それを遺族会が持っていて、それが出てきたのが戦後58年経っていて、やっと戦争孤児のことが取り上げられるようになった。
交通事故等で残された孤児は家、故郷もあり、近所の人は良くしてくれるし、事故金、生命保険金があるが、戦争孤児は親家族一家全滅は同じだが、家も、故郷も、希望も夢も全部戦争で奪われ
それが戦争孤児です。
だが国は隠してしまって、戦争孤児は自分で生きなければいけない、何の保証もない。
戦争孤児は自殺するか、親戚でつらい目にあっても我慢してそこに残るか、浮浪児になるかの選択しかない。
国からも捨てられ、世間からも捨てられて、馬鹿にされてきたのが戦争孤児です。
篤志家が私財をなげうって、施設を作ってくれる例もあるが、1割程度の救済となっている。
軍人には今まで総額53兆円の保証金が出ているが、戦争孤児たちには何の保証も無く、国に訴えても14回も廃案になって、法律が通らなかったので、裁判を起こした。
東京空襲の場合は戦争孤児はほとんどの人が遺体が見つかっていない。
遺骨が出てきても判らないため引き取り手が無いので、空襲の犠牲者の慰霊碑、供養塔を作ってもらいたいと思っている。
「終わりなき悲しみ」本を出版 戦争孤児と震災被害者の類似性をテーマにしている。
東日本大震災の津波の後を、TVで一瞬見た時に空襲だと錯覚を起こしました。
過去、現在、未来が繋がっているので、だから今の人たちは過去を学んで、未来のことを決定するのは今の人達なので、未来の子供達を守るのは今の人たちだから同じ歴史を繰り返さないでほしい。