風間深志 障害者、キリマンシジャロの登頂へ
標高5895mのキリマンジェロの登頂に成功しました出版社に勤務した後に、1980年 キリマンジェロにバイクで挑戦、4500mまで昇りました
その後パリダカールラリーに日本人ライダーとして、初めて出場したのをはじめに、1987年にはバイクで北極点に、92年には南極点にも到達に成功しました
ところが2004年に22年ぶりにパリダカールラリーに出場したところ、事故にあい、左足に怪我をして、
して、1年に以上の入院生活を送りました
このことがきっかけで、風間さんは障害者とともに参加する冒険活動を始め、障害者による
オーストラリア大陸の横断や日本縦断駅伝などに挑戦してきました
僕は障害をもっているので障害をもっている方たちは、意外と自ら自分の行動範囲を狭め
てしまったり、夢をもっていながら蓋をしてしまうとかが多いので、もっと人生前向きに行こうよと
平たく言えば言いたい キリマンジャロに焦点を求めた
車椅子の人が2人、左足義足が一人、左側半身麻痺、私が下肢機能不全です その5人です
ほかに健常者含め 合計14人で参加した
ブログ等で集める(新聞広告もやる)
企業からの寄付等の援助を得て資金を調達した 理解は得られた
日本の文化に遊びの精神が浸透してきたという感じはする
自己負担は約60万円だった 今回は71名のポーターを頼んだ 合計86名の大部隊となった
車いすは頑丈でないといけないので、いろいろ工夫した(4通りの運動機能をもつような
物を作った)
新しいことをやるにはそれなりのハードは必要
段取り8分、仕事2分と職人さんの言葉があるが、準備はそれなりにすそ野が広くある
遠征は総合力が必要 決断力、頑張り方、柔軟性とか、いろいろな要素が必要
成功の確率は8割、9割はあった 気候上の問題はどうなるかわからないので
最悪の場合は撤退の視野を持ちながら、やった(ゆるやかに締めあげながら)
ゆく前には 低い山から富士山まで出かけて準備をすすめた
日本を出発したのが2月6日 2月8日から登山開始 タンザニア
ラングーというゲートがあり、そこから出発 時間的にはきつかった
いきなり急斜面に入るのではなくハイキングのような緩斜面からのスタートだったので
よかった 気温も30度で結構暑かった
周りは鳥は鳴いているし、猿はキャキャと鳴いているしアフリカだなと思った
緊張をなくしてやるように、口笛を吹いたりして緊張感を和らげるように行動した
車椅子の歩調に合わせる様に、進める(段差の部分はポーターが担ぎあげる)
私は左足がほとんどだめなので、一番弱いと思っていた(特に下りは駄目)
自分の力で登りたいとのクレームがある人からあったが、全体での一つの遠征隊なので
助けてもらわないといけないので、話し合って了解してもらった(心底納得はなかったと思う
天候を含めて全方位で戦っていくしかないので
高度があがってゆくと、思いっきり顔がはれたり、吹き出物が出たりひどくなってくる
毎日の健康管理、規則正しい食事、排便をしっかりやる
高山病は厄介 だるくなって、気力がなくなってくる 今回はその様な酷さはなかったが
高所順化を行う 最後のステイ場所は4700m 血中酸素を下げさせないようにする
寝ると血中酸素を下げるので、寝ないでアタックに備える人が多かった
気温は-8度だった まだ真っ暗やみの中進んだ
朝6時になって太陽があがって、体を照らした時には、ぬくみを感じ気分も上がってくる
大変な斜面だった 我々は11時間かかって山頂に到達した(通常の約倍の時間)
我々は泣いたが、経験のあるポーターたちも一緒に泣いた
2004年パリダカールラリーに参加して事故にあう
僕は22年ぶりにでたが、モロッコの最初のステージでトラックと激突してしまって、
左足がぐじゃぐじゃになってしまって、長い闘病生活になってしまった
怪我をしてしまったということが初めて障害とか、健康でない自分を垣間見た
そこで生活観が変わった
元気、健康を深く考えるようになった
先生は退院するとそれではい さようなら で終わってしまうが、患者はそこからリハビリして
元気になろうと社会復帰を目指すが、先生はそこの部分を知らない
もっと先生はそこの部分を知ってもらいたい、医療の分野に入れてもらいたい
欧米の病院のシステムはリハリビとお医者さんの部分が全く同一であるんですね
日本は違う 病院から社会復帰へのハードルが高すぎる
障害者と健常者が共存してゆければいいと思う
次はゴビ砂漠でラクダに乗って星空を眺めてみようじゃないかという計画を立てている
楽しく生きようよ という感じですね 夢が引っ張ってくれる