白幡さんは日本と海外の都市文化の比較研究の権威です。
そのライフワークの一つが花見の研究です。
桜の木の下に大勢の人が集い、酒を酌み交わし歌も出る。
そんな花見は日本独特の文化であるといいます。 日本人の花見から何が見えてくるのか伺いました。
春の季節は必ず数か所行くことにしています、京都では八坂神社、東京では上野公園には見にゆくことにしています。
これまで行ったことのないところも一か所花見をしている。
都市文化はもともと都市計画史を勉強したいとヨーロッパに行った。
日本に帰って花見を体験しているうちに、はっと どうも向こうの国では花を見に行く人はいるけれども、日本のように大勢いが集まってワイワイと、花を見ているという様子は少なかったと思った。
花見のルーツ、過去の歴史はどうなっているのかと探究したくなった。
鑑賞するということはある。(世界に普遍的にある) 日本の花の観賞、特に桜の花にたいする鑑賞で済むのか もっと幅広い桜の花に対する、思い、考え方が集まって日本の花見は出来上がっていると思った。
花見の要素の考え。
①群桜 桜(花)がないと駄目 (群れ咲く 沢山咲く 一斉に咲く)
②群衆 人がたくさんいる。(大勢で花を見に出かける)
③飲食 飲み物、食べ物が必ず伴う。
この三つが集まって花見が定義できる。
これをやっているのは日本人しかいないことに気がついた。
桜の木は温帯域にはたくさんあるが、季節に食べ物、飲み物をもって出かけることはない。
日本の場合は桜という風に花を中心に命名をしている。(・・桜)
英語はチェリー これは実のほうを指す。
チェリーブロッサム 世界では実を中心に考えている。(世界中の桜に対する見方)
アメリカには八重桜を送った。(日米友好のために送った桜)
アメリカの公園は基本的に飲食禁止になっている。(桜は贈れたが、花見はプレゼントできなかった)
奈良時代に花見はあった。 貴族たちが中国の宮廷文化を習って梅花の宴を行っていた。
梅は中国から導入されたものです。
愛でて、歌を詠む 貴族文化としての花見の第一のルーツ。(梅が中心)
万葉集 「春去れば まず咲く宿の梅の花 独り見つつや 春日くらさん」 大友家持の屋敷で歌われた。
「梅の花咲きて 散りなば 桜花 つぎて咲くべくなりにてあらずや」 桜も楽しみにしている様子が見られる歌もあるが、基本的には梅の花を高く評価して好んで愛でる様になって 梅花の宴というのが、貴族の中心的な宴になりました。
桜が登場するのは、平安時代の9世紀の初めのころ、左近の桜、右近の橘という神殿の前に2本の木が植えられている。
めでたさの表現で左近の桜は、実は最初左近の梅だった
ある時期から植え替えられた。 植え替えるときに桜に変わっている。
日本の外来文化からの脱却、日本独特の日本文化の形成の一つの要素といわれる。
それまでの梅に対する評価から、桜の花に対する評価に変わっていった。
その一つの証拠になる。 そのことを真っ先に指摘したのが本居宣長です。
平安の半ばまで、花と言って桜ということはなかった。 梅見の宴はあったが、花見といって桜見というようになったのは、平安中期までなかった。
日本人と桜の関係を文献上、学問上、科学的に説明した。
伊勢物語に桜のことが出てくる、在原 業平が詠んだ歌。
「世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけ からまし」
(桜がずっと咲いてほしい なのに散ってしまう。 残念 さびしい 世の中に桜がなかったら。こんなに心を煩わすことがないのに。)
惟喬親王の離宮に花見に行った時に詠んだといわれる。
「散ればこそ いとど 桜はめでたけれ 浮世に何か ひさしかるべき」
(散るからこそ一層桜は素晴らしいと思われる。 いったいこの浮世に久くながらえるものなんてあるのでしょうか)
この二つの歌は、日本人の桜に対する多様な思いが浮かんでくる。
複雑な感情が、桜によって日本人の心を刺激する。
客観的に分析したのが、江戸時代の本居宣長だったということになります。
花見にはもう一つルールがあるといわれている。
農民の文化から生まれたというルーツで桜は春に咲く。 ちょうど稲作の行事を開始する時期に当たる。
桜が咲く下で村中総出で飲食を楽しみ、桜の花を愛でて、「春山入り」という行事があった。
桜が咲くと神が降りてくるという考え方がある。
神様を里にお招きして、その年よい稲が実るように、秋になれば豊作になるようにという、お願いをする。(田の神様に対する祈願)
稲作文化への定着とほぼ同時にそういう行為が始まっていたのではないかと想像される。
普通の人々へ広がって、日本の花見が完成してゆくという構図になると思われる。
この二つが庶民に広まっていって江戸時代になってからと思われる。
京都は山沿いに市民が花見に出かけるという様子を描いた、洛中洛外図屏風だとか、花見図屏風というものが室町時代からある。
農耕に携わらない人が花見に行ったのが江戸時代で、さらに加速させたのが8代将軍吉宗。
吉宗は江戸の町の郊外に桜を植えて、花見の場所を作った。
これが日本の花見を大衆化させる要因となった。
5代将軍綱吉の時代に生類憐みの令を出している。 それで鷹狩りが中止になる。
吉宗の時代に鷹狩りが復活する。 鷹狩りは野山を駆け巡る軍事訓練でもある。
田畑を荒らすので春先は鷹狩りはやめるという暗黙の了解があった。 吉宗が頻繁にゆく鷹狩りのところに桜を植えた。
軍事訓練に対する農民に対する慰撫策として行う。 農村にもにぎわいの場所を作る。(一種の経済政策)
質素、倹約の生活は幕府を運営してゆく上で(武士)、農民にも少しの収入があるように、という発想があったと思う。(余暇政策をも)
花見に着飾ってゆく、御馳走を作る、女の人は花見小袖(新しく着物を新調する)
料理も発展する、器も漆塗り、絵画も発展する、花見をテーマにした歌舞伎、能も生まれてくる、小説、俳句、川柳も。
文学、美術、工芸、音楽(三味線等)、日本文化が花見によっていっぱい刺激された。
集いの文化が桜を介して連綿と続いてくる。 平安時代から身分の上中下を問わずみんなが歌を詠んで酒を飲んで楽しんだ。
花見の文献を読んできて翌朝的な言葉を見つけて「貴賎群衆」(きせんくんじゅ)がよく出てくる。 田の神様をみんなで里に導いてきてみんなの幸せに繋がる豊作を願う。(村人全員)
神様に捧げたものを全員でお下がりを一緒にいただく。(大勢で飲み食いをする)
今後も老人だけの楽しみでもなく、若者も自然にやっている。
花見は自然体の絆、文化だと思う。 一番大事なのは春が来て桜が咲いて、心が浮き立つ、それを友達と隣人と横のつながりを広めるような、根本的な集いの気持ちを大事にすることが必要だと思います。(共感の場)
これをやっているのは日本人しかいないことに気がついた。
桜の木は温帯域にはたくさんあるが、季節に食べ物、飲み物をもって出かけることはない。
日本の場合は桜という風に花を中心に命名をしている。(・・桜)
英語はチェリー これは実のほうを指す。
チェリーブロッサム 世界では実を中心に考えている。(世界中の桜に対する見方)
アメリカには八重桜を送った。(日米友好のために送った桜)
アメリカの公園は基本的に飲食禁止になっている。(桜は贈れたが、花見はプレゼントできなかった)
奈良時代に花見はあった。 貴族たちが中国の宮廷文化を習って梅花の宴を行っていた。
梅は中国から導入されたものです。
愛でて、歌を詠む 貴族文化としての花見の第一のルーツ。(梅が中心)
万葉集 「春去れば まず咲く宿の梅の花 独り見つつや 春日くらさん」 大友家持の屋敷で歌われた。
「梅の花咲きて 散りなば 桜花 つぎて咲くべくなりにてあらずや」 桜も楽しみにしている様子が見られる歌もあるが、基本的には梅の花を高く評価して好んで愛でる様になって 梅花の宴というのが、貴族の中心的な宴になりました。
桜が登場するのは、平安時代の9世紀の初めのころ、左近の桜、右近の橘という神殿の前に2本の木が植えられている。
めでたさの表現で左近の桜は、実は最初左近の梅だった
ある時期から植え替えられた。 植え替えるときに桜に変わっている。
日本の外来文化からの脱却、日本独特の日本文化の形成の一つの要素といわれる。
それまでの梅に対する評価から、桜の花に対する評価に変わっていった。
その一つの証拠になる。 そのことを真っ先に指摘したのが本居宣長です。
平安の半ばまで、花と言って桜ということはなかった。 梅見の宴はあったが、花見といって桜見というようになったのは、平安中期までなかった。
日本人と桜の関係を文献上、学問上、科学的に説明した。
伊勢物語に桜のことが出てくる、在原 業平が詠んだ歌。
「世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけ からまし」
(桜がずっと咲いてほしい なのに散ってしまう。 残念 さびしい 世の中に桜がなかったら。こんなに心を煩わすことがないのに。)
惟喬親王の離宮に花見に行った時に詠んだといわれる。
「散ればこそ いとど 桜はめでたけれ 浮世に何か ひさしかるべき」
(散るからこそ一層桜は素晴らしいと思われる。 いったいこの浮世に久くながらえるものなんてあるのでしょうか)
この二つの歌は、日本人の桜に対する多様な思いが浮かんでくる。
複雑な感情が、桜によって日本人の心を刺激する。
客観的に分析したのが、江戸時代の本居宣長だったということになります。
花見にはもう一つルールがあるといわれている。
農民の文化から生まれたというルーツで桜は春に咲く。 ちょうど稲作の行事を開始する時期に当たる。
桜が咲く下で村中総出で飲食を楽しみ、桜の花を愛でて、「春山入り」という行事があった。
桜が咲くと神が降りてくるという考え方がある。
神様を里にお招きして、その年よい稲が実るように、秋になれば豊作になるようにという、お願いをする。(田の神様に対する祈願)
稲作文化への定着とほぼ同時にそういう行為が始まっていたのではないかと想像される。
普通の人々へ広がって、日本の花見が完成してゆくという構図になると思われる。
この二つが庶民に広まっていって江戸時代になってからと思われる。
京都は山沿いに市民が花見に出かけるという様子を描いた、洛中洛外図屏風だとか、花見図屏風というものが室町時代からある。
農耕に携わらない人が花見に行ったのが江戸時代で、さらに加速させたのが8代将軍吉宗。
吉宗は江戸の町の郊外に桜を植えて、花見の場所を作った。
これが日本の花見を大衆化させる要因となった。
5代将軍綱吉の時代に生類憐みの令を出している。 それで鷹狩りが中止になる。
吉宗の時代に鷹狩りが復活する。 鷹狩りは野山を駆け巡る軍事訓練でもある。
田畑を荒らすので春先は鷹狩りはやめるという暗黙の了解があった。 吉宗が頻繁にゆく鷹狩りのところに桜を植えた。
軍事訓練に対する農民に対する慰撫策として行う。 農村にもにぎわいの場所を作る。(一種の経済政策)
質素、倹約の生活は幕府を運営してゆく上で(武士)、農民にも少しの収入があるように、という発想があったと思う。(余暇政策をも)
花見に着飾ってゆく、御馳走を作る、女の人は花見小袖(新しく着物を新調する)
料理も発展する、器も漆塗り、絵画も発展する、花見をテーマにした歌舞伎、能も生まれてくる、小説、俳句、川柳も。
文学、美術、工芸、音楽(三味線等)、日本文化が花見によっていっぱい刺激された。
集いの文化が桜を介して連綿と続いてくる。 平安時代から身分の上中下を問わずみんなが歌を詠んで酒を飲んで楽しんだ。
花見の文献を読んできて翌朝的な言葉を見つけて「貴賎群衆」(きせんくんじゅ)がよく出てくる。 田の神様をみんなで里に導いてきてみんなの幸せに繋がる豊作を願う。(村人全員)
神様に捧げたものを全員でお下がりを一緒にいただく。(大勢で飲み食いをする)
今後も老人だけの楽しみでもなく、若者も自然にやっている。
花見は自然体の絆、文化だと思う。 一番大事なのは春が来て桜が咲いて、心が浮き立つ、それを友達と隣人と横のつながりを広めるような、根本的な集いの気持ちを大事にすることが必要だと思います。(共感の場)