馬場あき子(歌人) ・時代を創った女たち
戦争中が女学校 5年生の時に、東伏見から三鷹にわたって、中島飛行機(飛行機製造工場)がありそこに動員されて、昼夜三交代で、機械を回せと言われた 旋盤工だった
発動機の台座を作っていた 休みになると屋上に上がって歌を歌ったりして遊んでいた
神楽坂にある三味線のお師匠さんと知り合いになり、藤娘、娘道成寺とか長唄を習った
その人は13歳で名取になった人だった
昭和20年になると負けるという事が、噂になり始める
すぐわかる 旋盤で削る材料がなくなる 我が家も空襲で焼けてしまう
いろいろ衣料をもらったりした 代用教員になったが、泊る家がない
代用教員はあきらめて、昭和女子専門学校に行くことになるが、やる事もなく自宅待機になった
家にいて、玉音放送も家で聞いたがさっぱり判らなかった
又短歌に出会う 秋になったら瓦礫の中から、耕して畑を作って、かぼちゃ、なす、きゅうり作った緑が瓦礫の上に生え茂ってくる そこに、こうろぎとかバッタがいる
歌集をもらった 「馬おいの 髭のそよろに 来る秋は まなこを閉じて 思い見るべし」 という歌に出会った 「まなこを閉じて」 というところに凄くひかれた まなこをとじてみえないないものが全部見えるんだと気がついた
長塚節の歌集で、真似をしようと思って作り始めた
駒込に能楽堂が残っていた 能を見にゆくことになった(国文学の単位取得のため)
今更能なの と思っていやいや行ったが、感動してしまった
後に人間国宝になった人が出てくる 情につられて泣く人が出てきた
たちまち家元に入門してしまった
歌も友達に誘われて、窪田章一郎が「まひる野」という雑誌を戦後いち早く立ち上げたが、そこにすぐ入門した
昭和23年に戸井田道三 評論家がいたが、能芸論を出版した これを読んで民俗学的な見方、社会学的な能の見方に驚嘆して、今まで私が見ていたのは単なる、ドラマとして見ていただけに過ぎなかった事に気がついて、非常に大きな衝撃を受ける
歴史があるものって、私は能なんて戦後つぶれてしまうのではないかと思ったが、自分が感動したことによって、どこに何を感動したのかと思って、随分能にお金を注いで見に行きました
深い歴史のある 形や、発声に民族の声や方がある事を知ったわけなんです
中世の世阿弥とつながっているような感覚
新作能を見に行って、現在の主人と出会って、結婚したが主人が結核になったりしたが、治った
「早笛」を創刊する 出版記念会でこんな歌は駄目だと皆にコテンパンにやられた
第二芸術 開戦の時と敗戦のときに涙を流すような歌なんかは、そんなようなものは文学ではないとか、文学の様式というのはそれが完成したときに終わるもので、そのあと違う様式が生まれるべきだと、短歌と俳句だけは延々と今にやっていて、伝統というよりは、惰性で持ってそういう様式を借りて、戦争が起これば、感動して涙を流し、戦争が終われば感動して又涙を流し、そういうのは駄目じゃないかという事でしょ 文学とは何かというものがないと、そういう事を言った
その通理だと思いながら、一つだけありがたいと思ったのは、高見淳さんが反論したこと
日本の小説、詩も世界の三流ならば、短歌は何だと これは三流でも二流でも一流でもない
独特のもので日本文学から短歌を引き算したら何が残るのだと 言う事で
論争の圏外にある日本文学の大きな地下水脈ではないかと、言う事を言ってくださった
第一歌集は否定された 戦争に負けて日本の古いものを何から何まで全部否定したような風潮があった 新しいものが全部いいような
斎藤茂吉が死に、釈迢空(折口信夫)が死んで、30年には新しい我々が第二芸術に答えを出していかなければならない 第二ではないという事を 文学としての短歌を打ち立てていかなければいけない責任があった そういう中で私が否定された事を私自身が痛烈に感じた
塚本邦雄さんとか 岡井隆さんとか 寺山修司さんとかが登場して、新しい短歌の時代が生まれてゆく中で、学校の教員になっていたので、いろいろな闘争に参加して言って、理論闘争もやるわけです
私自身も論闘争に加わっていった 昭和34年には「地下にともる火」を出した
次の転換期が出てくる 素直な歌から、技術を覚えて、闘争する姿を歌う歌集
オリンピックを機に日本全体が変わってくる 60年安保の直後に私が親しくしていた岸上大作(国学院)が安保闘争の傷を負って自殺する 自分は本当に社会派なんだろうかと自分自身が判らなくなる あるときに伝統とは何かを書かされた 伝統派なのかと逆に思われた
古典と芸能にようやく気がついた 歌の要望は無く、芝居を書いたりしていた
「舞い歌」「はし姫」 書かせていだいた 主題を持って書くようになる
古典の読み方を唐木順三さんとか目崎徳衛さんとか角田文衛さんとかこの三人は忘れることのできない先生ですね
「式子内親王」を書いた(村上一郎さんが私に式子内親王が書けますと言ってくださった) 70年安保が近づくなかで治承の乱と重ねて、兄を死なせた姫君 一生独身でその記憶と歌に生きた人だったと考えながら書いた 物書きとしての登場の場を開いてくれた
歌と芸能的なものと古典的なものとを手にすることができた
今の立ち位置が決まったと思う 回り道は大事だと思う
「鬼の研究」にも広げる
自分のしていることに自覚を持っている「鬼」はなかなかいなくなっている 「鬼」もいなければならない
好きなものをいくつか体験して、その中に身を投じて、趣味としてではなく、苦しなければいけないし、苦しんだ数々の場面を一本の糸でつなぐと自分ができるという感じを持ちますね
これからの活動→日本の恋 恋は人が人を想うだけではなくて、世の中に恋をする 自分の未来に恋をする
さまざまな恋がある 恋はいのりですから 広い場面で恋を考えてみたいと考えている