2013年4月21日日曜日

馬場あき子(歌人)        ・時代を創った女たち

馬場あき子(歌人)     ・時代を創った女たち
日本女子専門学校 現在の昭和女子大学を卒業、中学、高校の教師を務めながら、短歌と能を学び、1955年第一歌集「早笛」を発表 昭和52年教師生活を終えて、短歌の会「かりん」を創始し、以来歌人としての活動を中心に文芸評論や新作能の創作にも意欲的に取り組む
平成15年日本芸術院賞を受け、芸術院会員になりました

正月は昔は百人一首をやったり、していた   子供の時から百人一首はやっていた
小学校は成績も悪かったり、母は結核でそばに寄せ付けないようにしていたので、あまり記憶に無かった ほしいものは意外と揃っていて、欲求というものがなかった
感情が動いたのは母が無くなったときで、6歳くらいのとき、 父は雪をかぶった南天を見ていて振りかえった時に、涙を浮かべていたことを鮮明に覚えている  
小学校は祖母が越境入学させた 池袋第五小学校 江古田から電車通学 オール乙に丙があった(当時の成績表のランク 甲、乙、丙、丁) 
 
祖母は成績なんかどうでもいいと言って、本を読むこと、百人一首は暗誦できた
叔母が数学を教えてくれる 物語にして考えてしまい、判らず、叔母からは叱られた
2度目の母が突然来て、今までの女性の世界とは違う女性が来て吃驚した
小学校の3年夏休み後 継母の家(高田馬場)から通うと祖母にいう (なぜこのように行動したのか判らなかった)
綺麗なお母さんで三味線も弾けるし、踊りもできる 教えてもらって楽しいという事を覚えた
新文化の世界に入ってしまった この母親が好きだった 感情が子供だった
こずかいはたくさんもらえるが、勝負をしてほとんど蒔きあげられた(面白かった)
戸塚第二小学校に4年のときに転校する

父は大学を出ているのに、お子さんがこんな成績では無念ではありませんか もう少しお子さんの勉強に関心を持って見てあげてくださいと、説教されている
初めて勉強しなければいけないと思った
国語と歴史だけは負けないことになる 数学は駄目だった
近所の子とも、以前は大事に扱われていたが(祖母が近所の子にこずかいをあたえていた)
新たな近所の子とはいつの間にかガキ大将になっていた
父は釣りの名手だった  一緒に連れて行ってもらって、その時に初めて歌を作った
「山ざくら 花散り果てし 木の幹を 静かに露の伝いいるかも」
自分のノートに書いておいた(親に話すことは無かった)

段々戦争が激しくなってからも、親に相談はしないで、自分が決めたことを親が承認するという子だった(私の性格だったと思う)
どんどん本を読んだり、歌を詠んだりした
昭和16年12月8日 数学の試験で何もできなかったが、開戦の日で校庭に集められ、数学の試験は不問に付された
本だけは毎日読んだ  読書会を作って、いっぱい読んだ(14歳)  女の一生はじめいろいろ
能の好きな友達がいた  寿座に2年ぐらい通い詰めた その後19年に娯楽禁止になった
その時に養われたものが、戦後に全部芽を吹く (子供の時にいいものを与えることは大事だと思った) 多感な吸収力があるときに、体験しておくということは、いろんな意味で生かされてくる