2020年4月17日金曜日

さかもと未明(アーティスト)       ・「生きづらさを乗り越えよう」

さかもと未明(アーティスト)       ・「生きづらさを乗り越えよう」
さかもとさんは昭和40年横浜生まれ。
幼いころから親とうまくいかず、家庭の問題に悩み、同級生からもいじめられ学校にもなじめませんでした。
大学卒業後漫画家として活躍し脚光を浴びましたが、41歳の時難病の膠原病 皮膚・筋肉・関節・血管・骨・内臓に広く存在するコラーゲンに対して、慢性的に炎症が生じることから発症する病気です。コラーゲンの分布様式が全身各所に広がることから、膠原病では全身各所において障害がみられるという特徴があります。)と診断され5年間ベッドから起き上がることができない日々を過ごしました。
膠原病の治療を続ける中で幼少期からの苦しみの原因が発達障害であったということがようやくわかります。
発達障害と向き合いつらい体験を乗り越えたさかもとさんは苦しんでいる人を少しでも力づけたいと、膠原病の治療を続けながらが、画家としてシンガーとして随筆家として表現の幅を広げています。

何か一つやると足りない、言葉でも表現したい、言葉でいうと音楽にしたい、更に絵で見せたいと広がっていってしまうので、自分の体調と相談して、時間割をとってバランスさせています。
2006年に膠原病が発症して、2008年に難病認定を受けて、2009年には歩くのもできない状況になり、声も出なくなったので2011年から2015年の間はほとんど寝たり起きたり入院したりという状態が続いていました。
その時に今の主人と結婚することができて,医師なのでいい治療を受けさせていただき安心して休ませてもらって、生まれ変わったようにこうやって表現できるようになって、これからの人生はいつまでできるかわからないが、もらった命として精いっぱいの表現をしたいと思って活動をしています。
2008年にはずいぶん悪くなって、5年以内に最悪命が尽きるか、寝たきりになることを覚悟して人生設計を考え直してくださいと医師から言われてショックでした。
どうしていいかわからず泣いてばかりいました。
ふっと思い出したのは小さいころ読んだマザーテレサの「神様は乗り越えられない試練は絶対お与えになりません、それはあなたが選ばれたから与えられたんです」、というような意味の言葉を思い出しました。
何かできるか、その何かを見つけなければいけないと思って家に帰ったのを覚えています。

膠原病があるために1日10時間ぐらい寝ないと身体がもたないんです。
朝は身体が動かなくて3時間ぐらいはだめで、10時に起きてもスタートが1時ぐらいになってしまって、まず絵をかいて、夕方8時から12時ぐらいは主人を待ちながらいろいろメールなどをして、主人が帰ってきたら一緒にお風呂に入るという生活です。
発達障害が見つかったのは膠原病の治療の後で、膠原病の治療を始めても思い通りに体が動かないんです。
おかしいということで、アシスタントが発達障害の星野仁彦先生の本の症状とそっくりだからということで、行ったら発達障害を抱えているということがわかりました。(45歳)
親に変わった子だと言われたり学校でいじめられたりしたが、全部このせいで泣いて泣いて、それですごく楽になりました。
その治療も始めて身体もよくなっていきました。
一般的に発達障害の子は運動が苦手なんです。
運動会でも靴の紐が結べなくて転んでみんなに笑われ、友達もできなくて、いじめにも会いました。
学校にもいかなくなったり、学校時代は正直つらかったです。

祖母にかわいがってもらいましたが、10歳ぐらいから死ぬ死ぬといって騒いでいまして、祖母は死ぬなと言ってくれて祖母がいなかったらどうなっていたのか分からなかった。
落ち着きのない、常識がわからない子でした。
母は私を普通にしたかったが、普通ってどういうことだろうと思いました。
勉強ができたので、その分生意気になるんだといつも怒られました。
見た本を写真のように絵のまんま頭に入るんです。
数字も絵で覚えるんで、覚えたものを逆から言ってくださいと言われても簡単で、こんなにできる人はいないと言ってびっくりされました。
ものすごくできるところと全然できないところもありました。
なんで片付けをしなければいけないんだろうと、明日使うものをなんで片付けるんだろうと思いました。
昼夜逆転したりして、学校に行っても疲れて早退してしまうとか、全部発達障害からくるもので、判っていたら治療して楽しい学校生活ができたかもしれないです。

父がすごく優しい人でしたが、たまに酔っぱらうと暴れるという症状を持っていて、家が壊れたり母がぶたれたりということがあり、悩んでつらかった。
洗濯用のひもを持ち出して、死のうかと思ったところを祖母に見つかりました。
祖母は夫を早く亡くして「子どもを苦労して育ててきて、そんな中でお前がやっと生まれて10歳になってこれからだというときに死なれたら、60何年も苦労してきて生きてるようがないので、だから死んだらだめだ」と言われて、その言葉がなかったら私はいつくじけていたかわからないです。
40代半ばで発達障害だということがわかり楽になりました。
いじめにあった友達とか両親を恨んだりしましたが、「一所懸命教育しようと思ってできなかった両親もきっとつらかったんだと思うから許してあげなさい。あなたが悪いんじゃない、病気が悪いんだから。」、と星野先生が言ってくださいました。
どれだか楽になったかしれません。
星野先生ご自身も発達障害なので、患者の身になって考えてくださるんです。
発達障害のための薬を飲んですごく楽になりました。

着替えができるようになり、つえが必要なくなり、そのうち絵も描けるようになり、歌も歌えるようになりました。
拉致被害者の支援のために作った曲があってその歌も歌っています。
横田 滋さんと早紀江さんと知り合いになって、信頼してくださって、結婚をすることになって媒酌人をしてくださって、自分でできる恩返しが何かないかと思ったときに、歌を作っていろんな国の言葉に訳して世界の人に拉致被害者のことを知ってもらおうと思って、作詞して作曲をしてもらって「青い伝説」ができました。
ローマでの震災復興のコンサートでプログラムに入れていただき実現しました。
結婚式の内掛けを振袖に仕立て直して、その衣装で歌いました。
イタリアの方は拉致問題のことを知らなくて、終わってから100人以上の人が集まってきて「これは世界で解決しなければいけない問題だ」と言ってくださいました。
メッセージをローマ教皇が読んでくれたものと思いますが、ローマに帰る飛行機の中で声明をだされて、「北朝鮮の人権問題に対して、第三国が武力以外の方法で介入してこの問題を解決すべきです。」と声明を出してくださいました。
ローマ教皇がが実際に日本にお見えになり、「教皇の言葉」をわかりやすく本にして出版許可をくださって、来日のタイミングに出しました。
ローマ教皇のいろんなミサの追っかけをする許可証を取っていただき、長崎、東京ドームにもいって写真を撮ることができました。

特に好きな言葉が二つあり
①「皆さんはどのように生きたいですか、火をともしたともしびのように生きたいですか、それとも消えたともしびのように生きたいですか、ともしびに火をともしていますか、それとも消していますか。」
ともしびはろうそくの言葉の訳だと思います。
火をつけないとろうそくは無事だが仕事をしないで終わってしまうが、火をともされたろうそくは溶けていつかはなくなってしまう、命はなくなってしまうが、燃えている間自分は苦しくても人を温めたり、人を導いてくれることができ、自分の命を燃やして人の気持ちを照らせるようすにすることは素晴らしいと、この言葉から言ってもらっている気がします。
②「人の心を喜ばせるのは自分と同じようなものの心、自分を愛し孤独から救い出してくれる心のほかにはない。」
本当にありがたいと思うのは、人との出会いにものすごく恵まれています。
ジャズピアニストクリヤ・マコトさんとの出会いがあり、ミシェル・ルグランさんの息子さんとも出会いがありました。
歌手の次男のバンジャマン・ルグランさんとはクリヤ・マコトさんが共演したそうで、私とバンジャマン・ルグランさんとのデュエットが実現しました。
*「男と女」
秋にはバンジャマン・ルグランさんとコンサートが予定されています。
外国で絵の展示も予定していますが。
強く思ったことは必ずできます、だから皆さん諦めないでください。