2020年4月1日水曜日

南木佳士(小説家・医師)         ・「尊厳死に向き合う」

南木佳士(小説家・医師)         ・「尊厳死に向き合う」
この春公開された映画『山中静夫氏の尊厳死』、末期の肺がんを宣告された男性が生まれ故郷で死ぬために信州の病院に転院してきます。
家族の反対を押し切ってきたその患者は、動ける間はと外出許可を担当医に求めました。
医師はその患者との約束を守って、初めて尊厳死というものに向き合おうとします。
原作者の南木佳士さんは群馬県の生まれ、68歳。
1989年に「ダイヤモンドダスト」で芥川賞を受賞しました。
長野県の佐久市の病院で今も医師を務めながら作家活動を続けています。
あまりにも多くの死に出会う中でご自身もかつてうつ病を発症した経験をお持ちです。

『山中静夫氏の尊厳死』は今から26,7年ぐらい前に書いた作品です。
自分の体調が悪くて小説も書けないし、医者の仕事も満足にできない頃にようやく少し書けるという様になった作品です。
山中静夫氏は57歳、末期の肺がんを宣告されて主人公の今井医師の病院にやってきて、「楽に死なせてください」と医師に告げて故郷の誰も住まなくなった実家のそばで墓を作り始めるという話ですが。
呼吸器内科はどうしても肺がんの患者さんを診ますので、30年前の肺がんの患者さんは進行した形で見つかることが多かったです。
亡くなる方々はどこへ行くと思って亡くなってゆくんだろうと常に思っていました。
モデルになる方はいませんが、患者さんの平均的な思いはこういう事ではないかと思って想像しました。
自分でも体調が悪い時にも死を考えていたので、故郷の裏山に埋葬してほしいとは妻に言っては怒られていました。
病院の社宅みたいなところに住んでいたので、たえず重症の患者さんがいたので夜間の呼び出しはしょっちゅうでした。
小説も書いていたので書いている途中に呼び出されて、そのまま病院にいて朝を迎えるという事もありました。
今考えると無茶だと思いますが当時はそのようなことができると考えていました。

生まれは群馬県嬬恋村です。
中学2年になるときに父の都合で東京に転校しました。
都立高校2年生の頃に手に職をつけて田舎でもできる仕事をやりたいと思っていまいた。
田舎には医師が非常に少なかったので、田舎に戻って医師の仕事をしたいのが第一でした。
秋田大学の医学部に入って佐久の病院に行きました。
病院に勤めて3,4年後に難民の医療でカンボジアのタイ国境地帯に行きました。(28歳)
3か月で交代する医療チームでした。
そこでは人間ってしたたかに生きていくんだなと感じました。
若者たちと話し合う機会がありましたが、日本が何か災害戦争にあったらカンボジアに逃げてくるといいよと言っていました。(ちょっとした着るものさえあれば大丈夫だと)
難民の医療に携わっているときに宿舎に、文学界の新人賞を受賞しましたという、電話が無いので無線連絡がありました。
実際に人が亡くなってゆく状況を診る仕事なんだと医師になってみるまでわからなかった。
1年目から重症の患者さんを受け持ち、この仕事はしんどいなという事がありました。
しんどさを俯瞰するような形で文章にして捉えなおしておかないと、何をやっているのかわからないという事がありました。

医療現場の現実、患者と医療者の現場を伝えたいという事がありました。
死の現場としての病院、そこでは毎日起こっている。
死との出会いの後に家に帰って子どもが風呂から上がって拭いてもらった後に自分に跳びついてくると、どういう顔を返せばいいんだろうと、そういった中で私はどの位置に居ればいいんだという事がいつも疑問でした。
私が不幸なぐらいの方が患者さんを診るという状態にはあっているんじゃないかという事で家族サービスを全くしたことが無いという事になってしまいました。
1989年に「ダイヤモンドダスト」で芥川賞を受賞しました。
うつ病を発症した翌年の秋でした。
芥川賞候補には4回なって5回目で受賞することになりました。(37歳)
3,4回目になると書き続けなければという様な気持ちになりました。
受賞した時にはほっとしましたが、今後はプロの作家としてやらなければいけないと思って自分に課すハードルは高くなったという事はあります。
体調が悪くなったのは38歳でした。
芥川賞を取ると次の月の発売の文学界に新しい作品を載せるという事があります。
3日間で一作仕上げて送ったという事もありました。
3ケ月に一遍必ず短編を書けとか言われて書いていました。

やればできるとはおもっていましたが、ある日急にめまいがしてソファーで横になっていたが不安感がやまないで、妻に車で迎えに来てもらって家に帰りました。
妻が顔を見て生きている顔色ではなかったと言っていました。
翌日病院に行くが階段を昇ろうとするが足が出ていかなくて、検査入院したが大丈夫だと言われて、これは鬱かもしれないと思いました。
1ケ月して精神の外来に行ってみてもらったら、すぐに入院しなさいと言われてしまいました。
しかし頼み込んで自宅療養にしてもらいました。
子どもは1年生と3年生でしたし、眠ろうとしても眠れませんでした。
死のことを考えて得たいの知れない怖さがありました。
眠りに付けないと昔のことを考えてしまって、患者さんが亡くなってゆくところで、300人以上見ていたのでひとりひとり瞼の裏に出てくる、そんな感じでした。
症状が良くなるまで2年半ぐらいかかりました。
変えてくれたのは、一つは時で、もう一つは末期がんの診療医師と芥川作家という役を降りざるを得なかった、降りたという事です。
生きていられるだけで儲けものだという事でもう一回動き出したという事です。
諦める、事態を明らかに見る、それが一番だったと思います。

子どもたちには勉強しなさいと言っていましたが、そういうことは全く言わなくなりました。
子どもたちの遊び相手にトラ(猫)がなってくれて、私が何とか大丈夫な様になった頃に15年いたトラが亡くなってしまいました。
トラが亡くなったときには子どもたちも来てくれてみんなで見送りました。
研修医だったころに教えた若い医者が精神科医になって、不安でたまらなかった時に夜に救急で跳び込んだことがあって、彼が丁寧に対応してくれて諄々と諭してくれました。
鬱は良くなったり悪くなったり繰り返しながら徐々に良くなってゆく、確かに実感です。
鬱の直接の原因はないです、毎日の亡くなる方を看取る生活がボディーブローの様に少しずつ効いていて、或るとき普通の一回のパンチでガクッと来てしまうという事だと思います。
最期を看取る医者も沢山いるという事です。
患者さんが亡くなってゆくのを見ていると、人というものはいずれこういう風になってゆくのが当たり前なので、私に起こらないはずなないという発想になってゆきます。
周り周って自分の背中に張り付いてくるというような感じがします。
一人の人が段々呼吸を止めてゆく過程が診る者にとってはエネルギーを吸い取られてゆくような気がする仕事です。
エネルギーをもらう産婦人科医とは逆のような感じがします。
心身ともにタフではないとだめだと思います。

肺がんの患者さんは末期になると呼吸困難になりますが、酸素を投与するが苦しさが消えないとなると、モルヒネを点滴したりすることになりますが、そうすると呼吸は楽になりますが、呼吸が浅くなったり、意識がとろとろしてくるので、家族の人ときちんと話せなくなったりします。
患者さんを楽にしたいという事だったら、モルヒネを使い続けるんですが、やがて全身が衰弱してくるので、安楽死と尊厳死の間ってどこなんだろうなという事をいつも考えていました。
尊厳死をきちんとやろうとすると、あの映画のようにかなり患者さんもたいへんなことになるし、家族も大変なことになるし、という事です、難しいです。
なにか基準となるという事はないです。
30年前は末期ですよとは患者さんには伝えませんでしたが、今は告知するようになって現実の状況を医師がきちんと話してあげられればいいなあと思います。
本人の意志をみんなが共有するという事だと思います。
地方では末期の人を診る内科、外科の人数が足りないと思います。
30年前とは医学部卒業生が倍になっていると思いますが、そういったところを避ける傾向があるのではないかと思います。

今というのが或るときパタッと終わるんだなという、そっけない死生観になってしまいました。
明日踏み出せばもうそうかもしれないと思いながら生きていると、日々ちゃんと暮らそうという風になります。
山を歩いてみると気分がよくなりリラックスしました。
うつ病の再発の予防としては脳の血流の循環を良くするために、しっかりとした心拍数を上げる運動が有効であるという事が常識になっています。