2020年4月4日土曜日

木津川計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・大阪の文化を見つめて65年(1)

木津川計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・大阪の文化を見つめて65年(1)
~風前の灯(ともしび)の上方芸能に光を」
1968年大阪で雑誌上方芸能を創刊し、以来48年に渡って発行にかかわってきたのが木津川計さんです。
1986年からは京都の立命館大学で教壇に立ち若い世代に落語や歌舞伎、文楽、人形浄瑠璃、上方舞などの味わいを語り伝えてきました。
その活動が評価されて1998年に9は菊池寛賞を受賞、その受賞のコメントにはこう書かれています。
芸能の衰亡は民族の興亡にまで関わるとの信念に基づき、私費を投じて季刊上方芸能を刊行し続けて30年、上方の伝統芸能と大衆芸能の継承と発展に尽くし、次代を担う人材を育てた、とこのようにあります。
第一回目は「風前の灯(ともしび)の上方芸能に光を」 生い立ちから伺っていきます。

一人語り劇場が14年目です。
長谷川伸の新国劇、落語、歌舞伎、映画などの名作を一人で語ってきましたが、去年は浦島太郎、今年はかぐや姫で10分から15分で終わってしまいます。
しかし、その後なにを言い伝えようとしているのかと言うことを、解釈、解明してしてゆくという事をやっていきます。
高知県高知市江ノ口生まれ、1歳ちょっとで京都に移りました。
10歳で母親の故郷高知に戻って10年間過ごします。
大坂に20歳で出ていきました。
5人兄弟の長男です。
父親は離れて愛人と大阪で暮らして、母親は子どもたちを苦労しながら育てました。
高校3年の時に結核を宣告されて、母親は4人の子どもを連れて大阪にいきました。
高校卒業して友達のつてがあり国立療養所に入りました。
坂本昭という人が国立療養所の所長をしていました。
東大生の樺美智子がデモでなくなるが、最初の診察したのが坂本昭でした。
坂本昭は社会党の参議院議員になりますが、その後高知市長になります。
福祉に重点を置きました。
国立療養所には1年数か月いました。

謄写版印刷を父親が始めて、私と私の次の弟とでガリ版に書いてゆく作業をしました。
貧乏していましたが、父親が祇園で豪遊していたのには吃驚しました。
弟からの応援もあり大学に行くために必死で勉強しました。
大阪市立大学文学部社会学科に合格して、弟も目指す大学に入ることができました。
大学では学生運動の盛んなところで、文学部の学生委員会の副委員長になれという事で副委員長になりました。
10日に一遍大阪の学生連盟の大きな集会がありそこに行きました。
最大6000人が集まりました。
デモの最前線の誘導役をやりました。
印刷の依頼をきっかけに知り合い25歳の時に学生結婚をしました。
8月6日を結婚の日に選びましたが、戦後精神はアウシュビッツを再び繰り返さないという決意と、広島の惨劇を再び繰り返してはいけない、この二つを教訓に生きていかないといけないと思って8月6日にしました。
結婚して60年になりました。

弁護士、新聞記者、出版社を経営したい(絵本)という3つの夢がありました。
そのために大学に行きました。
憲法の講座を受講してその時に教授が黒田 了一教授で、のちに大阪知事を2期務められた方です。
黒田 了一教授は来た途端に黒板に
「秋の夜をひたすら学ぶ六法に恋という字は見いだせざりけり」
と書きました。
これを観て非人間的な感じに弁護士への道はあきらめました。
新聞記者については入社要綱を取り寄せたら、結核の 既往症があったら応募できないという項目がありました。
絵本の出版社については東京に行かなくてはいけなかったが、それが仕事の事情で出来なかった。

1968年(33歳)雑誌上方芸能を創刊。
上方歌舞伎、文楽もお客が入らない、伝統芸能があえいでいた時代でした。
当時どついたりする漫才が受けていました。
上方歌舞伎はお客が半分にも満たない状況でした。
文楽も600人入る劇場で夜の部では30人に満たないような状況でした。
住んでいるところを故郷にしないと、住んでいるところの芸能文化は駄目になってしまうと思いはじめました。
上方芸能は滅んでしまうのではないかと思って、上方芸能を復権復興させてゆくために働いてみようと思って、上方芸能という雑誌を出しました。
上方落語を聞く会を発足して、その時の会報として出したのが上方芸能の創刊号でした。
B5の8ページの粗末なものでしたが、廊下に捨てられないものがあり、それを踏んでゆく人たちがを見ました。
飲んでぼやいていたら、店の主人が「捨てられないもの、踏まれないものを作りなさい」といわれて、そこから上方芸能を懸命に私なりに拵えて行く出発点になりました。

創刊して1か月後、話をしているときに警察から電話がかかってきました。
どうやら父が自殺を図ったので、吹田の医院へすぐに行ってください、という事でした。
長椅子に毛布にくるまれた父親が転がっていまいた。
睡眠薬を大量に飲んで亡くなっていました。
今の金額でいうと5,6000万円の借金がありました。
そこから30代の難儀が始まってゆくわけです。