2020年4月3日金曜日

田原総一朗(ジャーナリスト)       ・「ニッポンへの遺言(2)」

田原総一朗(ジャーナリスト)       ・「ニッポンへの遺言(2)」
タブーに挑戦し危険なディレクターと呼ばれた田原さんは、たびたび仕事を干され空いた時間に活字のノンフィクションに挑みます。
そしてTV局を辞めて、フリーのジャーナリストとなります。
そのきっかけとなったノンフィクション、原子力について伺います。

当時原子力船「陸奥」がつくられて、青森の陸奥湾から出て放射線が漏れて大騒ぎになりました。
陸奥の取材に行きました。
筑摩書房が「展望」という雑誌を出していたので、原子力問題をまともにやろうと「原子力戦争」という連載を始めました。
原子力推進運動もあり、調べていったら仕掛けていったのが最大手広告代理店で、それを書いたらスポンサーがこんなことを書いているやつの局にはスポンサーを紹介しないぞ、という事で、上から連載を辞めるか、会社を辞めるか判断しろと言われました。
僕はどっちもしなかったら、部長、局長を処分して社内で発表したのでやめざるを得なかった、そしてフリーになりました。(42歳)
それが結果的には良かったと思う。
妻は全く反対しなかった。

1976年の「原子力戦争」と同じ時期に「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」というルポを書いています。
山川 暁夫さんと、長谷川 慶太郎さんと共に勉強会をしていましたが、二人とも元共産党でした。
山川さんは日本は対米従属は良くない、長谷川さんは反ソで両方から学んで、田中さんが辞めたロッキード事件、どうもアメリカにやられたとう事でいろいろと取材して、やはりそうだという事で、当人ではなく周りを全部取材しました。
その後1982年に田中角栄氏にインタビューすることになる。
失脚した後初めてのインタビューでした。
11時からのインタビューだったが、1時間たっても始まらなかった。
秘書の早坂さんに聞いたら、私に関する資料3.75㎏を全部集めて読んでいるとのことだった。
インタビュアーを徹底的に調べたいと思ったという事で、田中角栄という男を改めて見直しました。
構想力が有る、これはNO.1ですね。

高校、大学と日本で一番信頼できる党は共産党だと思っていました。
共産党は最期まで戦争反対、進駐軍のことを共産党は解放軍と呼んでいました。
徳田球一も野坂さんも非常にアメリカ軍と仲が良かった。
朝鮮戦争が始まったときに、日本への戦略を変えた。
ソ連は世界で一番素晴らしい国だと思っていました。
1965年「世界ドキュメンタリー会議」がありモスクワに行きました。
前年フルシチョフが失脚したが、モスクワ大学で15人ほどとディスカッションしたが、失脚理由を誰も発言してくれなかた。
この国は言論の自由が全くないことがわかった。
共産主義は平等は大事にするが競争は認めない、この国は駄目だと思いました。
1971年に宮澤さんに会うことができて、宮澤理論に惚れ込みました。
自衛隊ができたのが1954年、自民党ができたのが1955年、最初の総理大臣が鳩山一郎、
鳩山は憲法と自衛隊は大矛盾しているという事で自主憲法を想定、憲法改正しようとした。
池田以降は国民を騙してる、嘘をついていると言ったら、宮澤さんは実は違うと、日本人というものは自分の身体に合った洋服を作るのは下手だと、押し付けられた洋服に身体を合わせるのは上手い、という事でした。

ヨーロッパ、アメリカは弱い国と戦争して勝って植民地化してきたが、ベルサイユ講和条約で侵略戦争を認めない。
日本は憲法9条第一項では侵略戦争を認めない、侵略戦争で奪った植民地は全部解放しなければいけないが、ヨーロッパ、アメリカは全く解放しない。
そこで昭和維新、昭和になって日本はアジアの国々 タイ以外は全部植民地だという事で
アジアの国々を独立解放させるのが日本の役割だと、日本が強くなって、満州がいろんな民族が入り組んでめちゃくちゃになっているという事で、満州国を独立させる、日本のものにするという事だが、満州事変は侵略戦争になってゆく。
実は日本政府は満州事変を始めるにあたって、国際連盟の理事国のトップのイギリスに満州は独立させたいと伝え、イギリスはOKするんです。
リットン調査団は満州は認めることになっていた。
国際連盟の最終会義の最中に、日本が熱河省(ねっかしょう)・・・?(聞き取れない)認めない、国際連盟が・・・(聞き取れず)いけない。
翌年1935年にイギリスが日本に特使を派遣して、蒋介石が金に困っているからイギリス日本で・・・?を作ってやろう、もしこれに乗ったら蒋介石を説得して、満州国を認めさせる、日本政府は乗ろうとする。
ところが前の年に5・15事件で総理大臣が殺されている。
2・26事件もあり1937年日中戦争が始まる。

大川周明、北一輝、石原莞爾は全部反対、近衛首相の勉強会昭和研究会も反対。
広田弘毅を外務大臣にしてヒトラーに頼んでトラウトマン蒋介石との会談をしようとする、うまくいくようなときに南京陥落し、軍隊は自信過剰になって賠償金を出すように言うが出すわけがない。
本当はここで収めたかったが、その後訳の分からない太平洋戦争になった。
日本は自分の体に合った洋服を作ろうとすると、軍主導になり、そして戦争に負けた。
アメリカがあの憲法を日本に押し付けた。
こんな憲法ではまともな軍隊は作れない、日本の安全保障はアメリカに責任を持たして、憲法を逆手に取ってアメリカの戦争に巻き込まれない。
1965年にアメリカがベトナム戦争を始めた。
自衛隊の要請があったが、宮澤さんは憲法によって行くには行けないと言って行かずに済んで、これ以後日本はアメリカの戦争には巻き込まれないでやってきた。
自衛隊は誰も殺してはいない、これが日本だ、というのが宮澤理論です。
宮澤理論を田中角栄、中曽根みんなこれで賛成なんです。
トランプさんになって今の日本の安全保障はどうするのか大課題ですね。

日本の官僚は人間として一人一人は素晴らしいが、組織になると駄目になってしまう。
田中角栄が失脚したのちに三木、福田となり、再選の時に当然福田がなると思っていたが、田中角栄が全面的に大平の味方をして大平が勝ってしまった。
その後福田-大平戦争が起きて、財界は政治家の言う通り、政治家は金権だと、高度成長を支えたのが官僚だと、官僚でやろうと日本の官僚が出てくる。
官僚の問題点 
①リスクを取らない
②無責任
③無主張
バブル崩壊すると地価が1/10になり、宮澤さんはお金を出すというと、公的資金に賛成するという事は大蔵省の金融政策が間違ったと認めなければいけない。
大蔵省は絶対認めないから反対、大蔵省が反対したら財界も反対、その時に宮澤さんはいいました、「この国は総理大臣よりも大蔵賞の方が強いんだ。」と。
官僚主導から政治主導にしようとしたのが小沢一郎です。
それをさらに強めたのが安倍政権で600人の人事が官邸に行ってしまう。
官僚たちが官邸にご機嫌伺いをやるようになる。
中曽根内閣までは官僚はしっかりしていた。

「朝まで生テレビ!」(政治関連を中心とする討論深夜長寿番組)1986年から。
本気の討議をやろうとした。
ベルリンの壁が崩壊して、冷戦時代が無くなり新しい時代の座標軸は何だろうとこれを求めて真剣勝負、徹底討論、一夫勝負をやろうとしました。
1988年の秋に昭和天皇が危篤になり自粛自粛となり、いまこそ天皇の戦争責任をやろうではないかと、言ったら馬鹿野郎といわれました。
4回目に企画を変えようという事で、日本の左翼と右翼が仲直りしようという事でやりました。
右翼も来なかった。
大島渚、野坂などとは本気で勝負したが、その世代の人がいなくなって行って、戦争を知っている世代が亡くなって行って、みんなおとなしくなってしまいました。
大島渚、野坂などとやっていたことをそのままやっていたので、田原は人の話を聞かない、という声が出始めて今は反省しています。
ジャーナリストとして大事にしていることは
①身体を張って言論の自由を守る、戦争していますから。
②自分と考え方の違う人達の存在を認めて徹底的に討論する。
③野党を強くしたい。

妻が乳がんになりましたが、看病はコミュニケーションが密接になりますから楽しいです。
その当時北朝鮮に行くという話が出てきて、主治医は帰ってくるまで持つかどうかわからないと言われましたが、妻に相談したら行きなさいといわれて、行っている間に妻は亡くなりました。
妻を亡くして辛かったが、娘がいてくれてありがたいと思います。
出来れば生涯現役でいたいと思っています。
若い人は好きな事、やりたいことを人生掛けて見つけてほしい。
日本は戦争をしない、だから世界から信頼されている。
これからは攻めの経営をどうするかという事を考えていかないといけないと思います。

*聞きづらいところがいろいろあり、正しく伝えられていないところがあるかもしれません。